織田家の力を巧みに削いだ秀吉の「計略」
史記から読む徳川家康㉚
8月6日(日)放送の『どうする家康』第30回「新たなる覇者」では、織田信長(おだのぶなが)亡き後の織田家の様子が描かれた。信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った羽柴秀吉(はしばひでよし/ムロツヨシ)は、織田家中のなかでみるみるうちに力を伸ばし、天下への野心を剥(む)き出しにしていくのだった。
信長亡き後の織田家の主導権を羽柴秀吉が握る

愛知県美浜町にある、大御堂寺に残る織田信孝の墓。柴田勝家の死後、後ろ盾を失った信孝はこの地で兄・信雄の命によって自害させられた。「昔より 主を討つ身の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(『太閤記』)という辞世の句が伝わっており、秀吉への恨みが強く残る最期だったことがうかがえる。
織田信長を自刃に追い詰めた明智光秀を討ち果たした羽柴秀吉は、主君の仇を討ったことで、織田家中での発言力を急速に増していた。秀吉の動きを警戒した、信長の妹・市(いち/北川景子)は、織田家家臣団の筆頭である柴田勝家(しばたかついえ/吉原光夫)の嫁となることを決断。秀吉の振る舞いに歯止めをかけようとしていた。
一方、徳川家康(とくがわいやす/松本潤)は、旧武田領の甲斐、信濃、上野といった国々の平定を進めていた。旧武田領をめぐっては、関東の広大な領土を治める北条氏との対立は必至だった。
圧倒的な兵力差で不利な立場だった徳川軍だが、本多正信(ほんだまさのぶ/松山ケンイチ)の献策により五分の戦いに持ち込み、北条氏との和睦をもぎ取った。北条氏からの提案を受け、甲斐、信濃は徳川領、上野は北条領とすることで手を打ったのだった。
その年の冬、勝家と秀吉は軍事衝突を迎えた。秀吉の巧妙な調略により、柴田軍は味方の裏切りが相次ぎ、壊滅。市は家康からの援軍を待ったが、徳川軍に動きはなかった。家康は市の身を案じる一方で、秀吉に対し慎重な姿勢を崩さなかった。
こうして、勝家の居城である北ノ庄城(きたのしょうじょう)は陥落。勝家と市は自害して果てた。母との幼い頃からの約束を果たさなかったとして、城から脱出した市の長女・茶々(白鳥玉季)は、家康に対する憎しみを募らせるのだった。
家康は信雄を新たな盟主と見ていた?
1582(天正10)年6月14日、徳川家康は明智光秀討伐と称して出陣し、尾張国鳴海(愛知県名古屋市)に着陣した(『家忠日記』「吉村家文書」)。ところが、羽柴秀吉の使者がすでに光秀を討ったことを知らせてきたため、同月21日に浜松に帰還している(『当代記』『家忠日記』)。
翌月の7月3日、家康は旧武田領である甲斐国(現在の山梨県)平定のため出陣(『記録御用所本古文書』)。甲府に着陣した(「知久文書」)。家康はここで、武田家旧臣の糾合(きゅうごう)を進めた。
そんななか、家康のもとに秀吉からの書状が届いている。7月7日付の書状の内容は、信濃国(現在の長野県)、甲斐国、上野国(現在の群馬県)を敵方に渡さないよう依頼するもの(「大阪城天守閣所蔵文書」)。関東は、家康だけでなく、北条氏、上杉氏も乗り出した草刈り場となっており、混乱を極めていたことを考慮したものと考えられる。
当初、順調だった家康による甲斐・信濃計略だったが、上野をほぼ制圧した北条氏が甲斐に進出した8月になると、北条軍の攻撃に耐えかねた酒井忠次(さかいただつぐ)が新府城(しんぷじょう/山梨県韮崎市)に撤退。甲府で各隊に指示を出していた家康も新府城に駆けつけ、甲斐・若神子(わかみこ/山梨県北杜市)にて北条氏と対陣した。
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