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徳川家康が発展させる前の「江戸」はどんな場所だったのだろうか⁉

今月の歴史人 Part.1


江戸は世界屈指の大都市として知られていたが、その発展のきっかけのなったのは徳川家康の入国であった。では、徳川家康が江戸にやってくる前、江戸はどんな場所だったのだろうか?


 

■複雑な地形のため、古代からさほど重要視されず

 

江戸重長
江戸を支配した江戸氏の2代目。源頼朝が挙兵した際には、頼朝方の三浦氏を攻めたが後に頼朝に帰順。写真の銅像は東京都世田谷区にある菩提寺の慶元寺(けいげんじ)に立っている。

 

 江戸の「江」とは、海などが陸地に入りこんだ入り江のことで、「戸」とは入り口のことである。つまり、「江戸」という地名そのものが、「入り江の入り口」を意味しているということになる。現在、江戸は東京の旧名として知られているが、必ずしも江戸という地名は東京だけに存在していたわけではない。

 

 さて、東京の旧名である江戸は、かつては文字通り、入り江の入り口に存在していた。江戸城は武蔵野台地(むさしのだいち)の南東端に位置しているから、当然のことながら陸地である。しかし、江戸城の南東に位置する日比谷までは海が迫り、かつては入り江となっていた。この入り江は、日比谷入り江とよばれている。

 

 そもそも、約1万年前の縄文時代において、江戸周辺で陸地だったのは武蔵野台地だけだった。そればかりか、このころはいわゆる縄文海進によって、関東地方の奥の方まで海が入り込んでいたようである。

 

 現代でも武蔵野台地は「山の手」とよばれるように、東京のなかでも高台に位置している。しかし、武蔵野台地の東側から南側にかけては海となっていて、のちに海岸線が後退したことで下町低地とよばれる陸地になったとみられる。

 

 もっとも武蔵野台地も、谷筋になっているところには海が入り込んでおり、かなり複雑な地形であったらしい。当時の人々は、海に面した高台で生活していたようで、そこからは貝塚が見つかっている。弥生時代の名称の由来となる弥生土器が出土した弥生二丁目遺跡も、武蔵野台地に存在していた。このように、江戸は台地の端に位置していたから、古代においても、要地とはみなされていなかったようである。事実、律令国家が武蔵国の国府としたのは、現在の東京都府中市であった。ちなみに、府中という地名は、国府の所在地という意味である。つまり、武蔵国が東京都と埼玉県にほぼ分割された近代まで武蔵国府は、江戸ではなく、府中にあったのである。

 

 平安時代中期から律令体制が崩壊していくなか、鎮守府(ちんじゅふ)将軍・平良文(たいらのよしふみ)の孫にあたる平将恒(たいらのまさつね)が武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称した。秩父氏の子孫はのち、河越(かわごえ)氏・畠山(はたけやま)氏・渋谷(しぶや)氏などとして武蔵国一円に広がっていく。これらの一族は、桓武(かんむ)天皇の子孫であることから、桓武平氏秩父氏流とよばれている。

 

 平安時代末期には、秩父重綱(ちちぶしげつな)の子・重継が武蔵国の江戸郷を本拠として江戸氏を称した。治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦において江戸氏は当初、源頼朝に抵抗していることからも、それなりの勢威を誇っていたことがわかる。その後、江戸氏は頼朝に服属して御家人となり、鎌倉幕府にも重きをなした。

 

伝源頼朝坐像
平氏討伐の令旨に応じる形で、平氏の流れを汲む江戸氏を従えその領地である江戸を手に入れた。後に鎌倉で幕府を開き、武家政権の先駆けとなる。(東京国立博物館蔵/Colbase)

 

 しかし、室町幕府が開かれたあと、武蔵国内の桓武平氏は、関東管領として勢威を拡大する上杉憲顕(うえすぎのりあき)と対立し、応安元年(1368)、江戸氏は河越氏らと平一揆とよばれる一揆を結んで反乱をおこす。これが失敗に終わったことで、江戸氏の所領も大きく削られ、没落してしまった。

 

監修・文/小和田泰経

歴史人2023年8月号「江戸の暮らし大全」より

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