幕末に日本地図を持ち出そうとした「シーボルト」は本当はスパイだったのか!?
幕末の諜報事件─シーボルト事件の全真相─
スパイ容疑をかけられた国外退去処分となったシーボルト。実は、任務のために国籍を偽って日本に侵入した産業スパイだった。

24歳と若い日のシーボルトを描いた絵の写し。オランダ人ではなくドイツ人を日本に送り込んだのは、何かあった時に、シーボルトを他国人だからと切ろうしたのだろうか。シイボルト肖像/国会図書館蔵
皆さんは、シーボルト事件をご存じだろうか。オランダ商館付の医師・フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、文政11年(1828)の帰国に際し、ご禁制であった伊能忠敬(いのうただたか)が作った地図の写し等を国外へ持ち出そうとしたことが発覚した事件だ。シーボルトはスパイの容疑を受けて翌年文政12年に海外追放の上、再度の渡航が禁止された。
この事件は謎めいていて、台風によりシーボルトの荷物を積んでいた船が難破して発覚した説、シーボルトと確執があった間宮林蔵(まみやりんぞう)が密告した説、地図の写しを作った高橋景保(たかはしかげやす)がシーボルトに渡したことが発覚した説など複数の説がある。ちなみに高橋景保は伊能忠敬の師高橋至時(よしとき)の長男で、伊能忠敬亡き後はその遺志を継いで地図を完成させた立役者であった。
さて、シーボルトにかけられた容疑であるが、シーボルトを擁護する人々は、冤罪(えんざい)という。しかし、シーボルトが来日した当初の目的は、日本の情報を収集して、調査すること。つまり、諜報活動に他ならないのであった。
これには、当時のオランダならではの事情があった。という。フランス革命の中、フランス革命軍がオランダに攻め入り、オランダ提督(ていとく/実質上の国家元首)オラニュ公ウィレム五世は、妻子を連れてイギリスに亡命してしまい、オランダ領であったバタビィアもフランスの支配下に置かれた。こうして、オランダの国旗が翻っているのは、日本の出島だけとなった。
しかし、ナポレオンがロシアの冬将軍の前に敗れると、オランダ全土に反フランス運動が巻き起こる。ウィレム五世の子が帰国し、ベルギーを併合したネーデルランド連合王国の国王となった。さらに、バタビィアもオランダの元に返ってきた。
新制オランダは、財政立て直しのために利益の大きかった日本との貿易に力を注ぐこととなった。そのために日本のことを調査研究すると同時に、日本からの好感度を上げるような人物を派遣しようと計画を立てた。
一方のドイツの名門出身のシーボルトは、大学で医学を修めたものの、田舎の開業医では終わりたくないという野心を持っていた。この時代、大学に行くことができるのはごくわずかなエリートだけ。大学に行かずとも高名な医師に師事すれば開業医になれた。種痘で有名なジェンナーはこうした医師の一人である。
シーボルトは、伯父の伝手(つて)を頼ってオランダ軍医となり、バタビィアに向かう。バタビィアで、かつてオランダ商館付医師として派遣されたスウェーデン人ツェンベルクやドイツ人ケンペルの本を読んで、日本に魅せられ、訪日を決意した。
当時、ヨーロッパでは園芸ブームが始まったころで、ヨーロッパにはないアジアの植物に注目が集まっていた。シーボルトは、先人たちの記録から日本にはそれまで見たこともない植物が大量にあるのではと考えたのである。そして、船から長崎の風景を一目見たとたんそれが確信に変わったのだ。
日本人により好感を抱いてもらうという計画は、シーボルトが大学で学んだ最新の医療技術を日本人たちに教授するたことで果たされた。このために創られたのが鳴滝塾。ここにはシーボルトの評判を聞き、日本各地から教えを乞う人々が詰めかけた。シーボルトは、もう一つの使命を果たすためにこの門人たちを利用した。門人たちに免状を渡す際に、シーボルトが知りたいことに関する論文を提出させたのである。植物に関しては、長崎や江戸参府の道中で、「薬草の調査」と偽って、ヨーロッパにない植物をかき集め、標本を作った。また、シーボルトが直接足を運ぶことができない東北地方の植物に関してもやはり門人に標本を提出させたり、樺太の調査を行った最上徳内(もがみとくない)から手紙をもらったりして調査を補った。
これだけ盛大に調査活動を行えば、人目を引くことになろう。しかも入国する際に通詞からオランダ人ではないのではないかという嫌疑がかけられた。実は、来日当時のシーボルトはオランダ語が話せなかった。オランダ語とドイツ語はよく似ているが、違う言語である。それを方言だと押し切ったという逸話も残っている。
現代に例えると産業スパイとして日本に来たものの、日本で暮らしているうちに、日本の植物にのめり込んだ。帰国後は日本植物をヨーロッパに紹介するために、持ち帰った植物育て、販売、また、図譜を作ることに奔走した。
シーボルトが魅せられたのは、植物だけではなかった。長崎で持った妻の滝と娘のいねも同様、いやそれ以上だったようだ。再度の渡航が禁止になったのにも関わらず、シーボルトはなんとか日本へ渡る道を必死になって探り、1859年、再渡航を果たす。しかし、オランダ総領事の怒りを買い、1862年に再び日本を離れることとなった。そして、失意のうちに1866年、70年におよぶ生涯の幕を閉じたのである。