天下人・徳川家康に歯向かった上杉氏の名軍師「直江兼続」の人生とは⁉
戦国レジェンド
幼少期から上杉景勝を側近くで支え、戦国の真っただ中をともに駆け抜けた直江兼続。そんな彼がどのような人生を歩んだのかをここでは紹介する。
■合戦から内政までマルチに手腕を発揮

上杉景勝、直江兼続が幼少を過ごした坂戸城が築かれていた坂戸山の山麓に立つふたりの像。
直江兼続(なおえかねつぐ)は、越後上杉氏の家臣樋口兼豊(ひぐちかねとよ)の子として生まれている。はじめ上杉謙信(うえすぎけんしん)に仕え、その死後、養子の景勝(かげかつ)に仕えた。そして天正10年(1582)、直江氏の名跡(みょうせき)を継いで直江兼続と名乗っている。
景勝が家督を継承すると、側近の兼続は執政(しっせい)となった。執政とは、実際の政務を担った重臣の筆頭である。実際、兼続は、主君に代わって政務を取り仕切っている。特に、兼続は、景勝の名では命令できないような、表に出せない任務を託されていたらしい。
天正14年、上杉一門の上杉宜順(ぎじゅん)が秀吉(ひでよし)のもとに出奔(しゅっぽん)した。これは、兼続が追い込んだためとされる。上杉宜順がなぜ讒訴(ざんそ)されたのかは不明であるが、景勝にとって邪魔な存在と判断されたのであろう。
慶長3年(1598)に景勝は越後から会津へ転封(てんぽう)を命じられるが、兼続は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の奉行であった石田三成(いしだみつなり)と連絡をとりながら遂行している。その直後に秀吉が死去すると、景勝は徳川家康(とくがわいえやす)から謀反(むほん)の疑いをかけられてしまった。このとき家康から詰問された兼続が反駁(はんばく)した書状が「直江状(なおえじょう)」である。なぜ兼続が直江状を書いたのかといえば、外交を任されていたからである。
それだけでなく、兼続は実際に軍勢を率いて出陣もしており、関ヶ原の戦いでは、長谷堂城(はせどうじょう)を包囲した。西軍が敗北したことで攻略には失敗しているが、全軍を無事に会津まで戻している。合戦で被害が大きくなるのは負けて退却するときである。これを成功させた兼続は、優秀な軍師だったと言ってよい。

直江兼続の代名詞である「愛」の兜。一説には儒教の教えである「慈愛をもって民を大切にする」という意味を込めていると言われている。
監修・文 小和田泰経