梟雄?名将?戦国大名のパイオニアとなった革命者「北条早雲」とはどんな武将⁉
戦国レジェンド
「極悪非道な梟雄」とも「戦国の革命者」とも評される北条早雲。他の戦国武将に先駆け、戦乱を拓いた武将であり、領した相模では政治手腕を発揮し、良政を執った治世者でもある。そんな北条早雲の人生を追ってみた。
■単なる下剋上の先駆者でなく人心を掴んだ革新的武将

北条早雲生誕の地
早雲の出身地とされる岡山県井原市神代町にある高越城址には、「北条早雲生誕の地碑」がある。最近では伊勢氏の支流で、備中を治めていた家の出というのがほぼ確定している。
かつて北条早雲(ほうじょうそううん)は氏素性(うじすじょう)も知れぬ一介の素浪人からのし上がった人物とされていた。しかし近年の研究では、備中国荏原荘(えばらのしょう/現・岡山県井原市)の領主・伊勢盛定(いせもりさだ)の子として生まれた伊勢新九郎盛時(しんくろうもりとき)を、早雲とする説が有力だ。伊勢氏は室町幕府の政所執事を務める家柄であった。盛時は生涯、北条を名乗ったことはなく、早雲は庵号(あんごう)で入道(にゅうどう)したのちには早雲庵宗瑞(ぞうずい)と名乗っている。北条を名乗るのは、2代氏綱(うじつな)の代から。ここでは混乱を避けるため、盛時のことは宗瑞と記すことにしたい。
応仁元年(1467)、京の町を舞台に大規模な戦乱が起こる。戦国時代の扉を開いたとされる「応仁・文明の乱」である。この頃、8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の申次衆(もうしつぎしゅう)を務めていたのが、宗瑞の伯父である伊勢貞親(いせさだちか)であった。この戦いには、駿河国守護の今川義忠(いまがわよしただ)が東軍として参陣。しばしば伊勢貞親の元を訪ねている。その申次を父の盛定が務めていた。
そこで義忠は盛定の娘で宗瑞の姉を見初め、結婚している。その女性が、今川家嫡男の龍王丸(たつおうまる)を産んだ北川殿だ。ところが文明8年(1476)4月、遠江(とおとうみ)の国衆相手の戦からの帰路、義忠は残党に襲われ討死する。
この時、龍王丸はわずか6歳だったことから、義忠の従兄弟で小鹿範頼(おしかのりより)の子、小鹿範満(のりみつ)との間で家督を巡る争いが勃発。この騒動には堀越公方の足利政知や関東執事の上杉政憲(うえすぎまさのり)が関与し、小鹿方に与している。
■今川家の内紛に関与し頭角をあらわす
そこで北川殿は、この時に9代将軍足利義尚(よしひさ)の申次衆を務めていた弟の宗瑞を頼った。今川家の分裂を恐れた宗瑞は、ひとまず範満が家督を代行し、龍王丸が成人したらその座を還す、という処置で収めている。
その後、文明11年に前将軍足利義政から龍王丸の家督相続が認められたが、範満は家督代行を下りようとはしなかった。さらに文明19年、龍王丸が諸公事免状の発給などを行うようになったが、それでも範満は家督を返上しなかった。そこで北川殿は再び宗瑞に依頼。これ以上の話し合いは無駄だと感じた宗瑞は、夜討ちをかけ範満を討ち取ってしまう。
これで龍王丸は名実ともに今川家の当主となり、名も今川氏親(うじちか)と改めた。この功績により、宗瑞は現在の静岡県沼津市にあった興国寺(こうこくじ)城と、その付近の富士下方十二郷を領地として与えられている。
当時の関東では、東国を束ねる古河公方(こがくぼう)の力が衰えたため、山内(やまのうち)と扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏の争いを軸にして、各地で諸勢力の分裂と抗争が起こっていた。宗瑞は興国寺城に隣接する伊豆の土豪らとよしみを通じ、関東の混乱を注視していた。
延徳3年(1491)、伊豆を支配していた堀越公方の足利政知(まさとも)が没すると、素行不良のため廃嫡されていた茶々丸が強引に堀越公方の座を奪い、伊豆を支配。この時、宗瑞は自ら湯治(とうじ)と称して修善寺に赴き、伊豆の世情を調べたと言われている。
そして伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らを味方につけてしまう。そのうえで、伊豆の兵が山内上杉家に動員され、手薄になった時を見計らい、船で駿河湾を横断し、西伊豆の浜に上陸。茶々丸がいた堀越御所を背後から攻め落とした。
こうして伊豆一国を奪取した宗瑞は、明応4年(1495)には扇谷上杉氏の重臣、大森藤頼(おおもりふじより)の小田原城を攻略している。この時、鹿狩りと偽り兵を箱根山に配置し、牛の角に松明をつけ大軍の来襲に見せた「火牛(かぎゅう)の計(けい)」を用いたという逸話が残されているが、作り話の可能性が高い。
ただ宗瑞は領民にとって、よい領主であったのは事実であった。その好例が減税である。領地では検地を行い、当時は五公五民や六公四民が普通だった税率を、領民の生活に配慮した四公六民に定めている。加えて家訓をまとめた「早雲寺殿廿一箇条(にじゅういっかじょう)」を記し、人心掌握に努めている。人の心を掴み、さらに信頼できる情報をいち早く手に入れる。こうした革新的な手腕が、領国を拡大させた宗瑞の強みであった。

小田原駅前に立つ北条早雲像。
監修・文 小和田哲男/野田伊豆守