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はじめての安土城!客人が天下人・織田信長に受けたゴージャスなおもてなしとは⁉

戦国時代の裏側をのぞく ~とある神官の日記『兼見卿記』より~


織田信長(おだのぶなが)の城といえば安土城(あづちじょう)が有名ですね。戦国時代の神官・吉田兼見(よしだかねみ)の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)には、兼見が初めて安土城を訪れたときの体験が記されています。いったいどんなおもてなしを受けたのでしょうか?日記からのぞいてみましょう。


 

■織田信長が築いた安土城とは?

 

 安土城(滋賀県近江八幡市安土町)は、織田信長が築いた城として有名です。本能寺の変(ほんのうじのへん/1582年)直後に焼け落ちてしまったことは、とても残念ですが、信長の一代記『信長公記』(しんちょうこうき)には安土城の様子が事細かに記されています。五層七重(地上6階地下1階)の天守閣は壮観だったでしょうが、同書によると「城中どこも下から上までお座敷内の絵を描いたところには、全て金箔が貼ってあった」ようです。目が眩みそうですね。

豪華絢爛な安土城!(イラスト/nene)

 

 それはそうと、我らが吉田兼見も、安土城を訪問したことがあるのです。その事は『兼見卿記』(天正8年=1580年1月5日など)の記述から分かります。1580年1月というと、織田武将・羽柴秀吉(はしばひでよし)による播磨三木城(みきじょう/城主は別所長治)攻めが大詰めを迎えていた頃です(同月中旬、長治は切腹、三木城は落城)。さて、正月4日、『兼見卿記』には「明日下向安土」(明日、安土に京都から下向する)と記されています。ワクワクするとか、ドキドキするとか、そういった感情のようなものは記されていません。小学生の遠足日記ではないのですから、当然と言えば当然です。

 

 そして、いよいよ5日になります。兼見は「未明」に安土に下向したようです。「申刻」(15時から17時の間)に安土に到着したとのこと。安土に着いた兼見が先ずしたことは、信長の右筆(ゆうひつ/書記官)として有名な松井友閑(まついゆうかん)に「使者」を派遣したことです。「明日、御礼のため登城すること」を伝えたのですが、友閑からも使者がやって来て、その使者が言うには「明日は、朝食を用意しています」とのこと。兼見は内心(ラッキー)と思ったかは分かりません。

 

■はじめての安土城!吉田兼見が受けた信長のおもてなしとは

 

 翌日(6日)の朝9時頃、友閑と兼見は安土に登城。しばらくすると、そこに細川信良(ほそかわのぶよし)という武将もやって来ます。しばらく、座敷で待つ、兼見と信良。次に「茶湯座敷」に案内されます。そこで「朝食」を頂いたようです。床の間にかけられた絵や茶道具については書かれていますが、朝食については具体的に日記には記されていません。ただ朝食は「丁寧」とあるので、満足はしたのでしょう。

 

 茶道具については、友閑が「名物」と語ったと書かれています。茶道具は信長のコレクションであり、友閑の「名物」との言葉の裏には(どうです、信長様は良いものを所持しているでしょう)と自慢する想いがあったでしょう。ちなみに、茶は友閑がたててくれました。その日のうちに、兼見は城から下りますが、兼見にとって、これが初めての安土城訪問でした。その感想は「比類なき事也」(素晴らしい)というもの。うーん、とても簡潔です。兼見としてはすぐに京都に帰りたかったかもしれませんが「大雨」が降っていたので断念。翌日(7日)未明に安土を立つことになるのです。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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