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淫らな私娼や夜鷹が「特権を奪った」と遊女が激怒 横浜の外国人居留地で流行した「ムスメガール」とは?


■一般家庭の娘をラシャメンに……

 

 昭和初期に刊行された『幕末開港綿羊娘情史』によると、幕末に開港して以来、横浜居留地の男性らを相手にするラシャメンは原則“遊郭ラシャメン”、つまり遊女だった。しかし、「素朴で奥ゆかしい日本人女性の美しさ」を求めた一部の人間の間で、「一般家庭の娘を妾にしたい」という需要が高まっていく。そして、英一番館(商館)のガワール氏がお鶴という女性をラシャメンに迎えたのを皮切りに、こっそり斡旋するケースが少しずつ増えたのだという。

 

 「ムスメガール」といわれる女性たちを、外国人は溺愛した。彼女たちのために化粧スペースを作り、舶来品の高価な香水やおしろい、しゃぼん(石鹸)、絹織物、更紗、ビロード、羅紗、珊瑚珠、金の指輪といった贅沢な品々を買い与えたという。

 

 日曜日には終日女性らを遊ばせ、酒や肉を用意して楽しい時間を演出することまでした。英一番館の男らが「素人娘」を囲って秘密の快楽に浸っているというのは、公然の秘密となったのである。外国人の間で秘密が守られたのは、ムスメガールを性の相手とすることは遊郭、遊女の特権を侵すことにもつながるからだった。

 

 ところが、やはり隠し事は続かない。ある時その実態を遊郭のラシャメンが聞きつけて猛烈に怒った。「あの子たちは娘(ガール)というけれど、要は私娼、夜鷹です。それが綿羊娘(ラシャメン)の……わたしたちの特権を奪おうとしているのです」と言う。曰く、「最近は異人さんのわたしたち特権者に対する態度がやたらモノ足らぬという感じで変だなと思っていましたが、敵が侵略した次第です」とまで嘆いた。

 

 こうして遊郭ラシャメンと外国人専任遊女、そして彼女らを通して利益を得る妓楼が一致団結して、「もぐりのラシャメン」について奉行所に申し立てる事態になったのだった。

 

 横浜の二大妓楼、岩亀楼と五十鈴楼の主人らはこう語りあったという。「娘さんがラシャメンとなったという話だが、私は絶対に信じられぬ。いかに浮ついて淫乱な女でも、世間から罵倒されるようなラシャメンにはならぬ。家が貧乏で、夫のために遊郭に身を売るというならまだわかるが、ラシャメンはそうではなく世の憎しみを受けるものである」と。さらに「私には娘が2人いるが、遊女として性を売ってもラシャメンにはなりたがらない。もし強制すれば自害するという。世の中の娘さんもそうに違いないから、噂のもぐりラシャメンは私娼や夜鷹に過ぎないのだろう」と結論づけた。

 

 岩亀楼の主人は半信半疑だったが、ムスメガールたちの身元を調査させると、驚きの事実が発覚した。貧富の差は多少あれど、いずれもそれなりの良家の娘たちで、相手の外国人男性から本妻のごとく愛されているというのだ。これを知った2人は開いた口が塞がらなかった。

 

 岩亀楼の主人は奉行所に出向き、この結果を訴えた。奉行所でもまさに青天の霹靂といった様子で、まさか遊女ではなく一般家庭の娘がラシャメンになっているとは思いもしなかったのである。それは当時の日本人からしてみれば「異国の男らによる日本人女性の蹂躙」にほかならず、結局緊急許定となる重大事件に発展してしまった。

 

 同書には告発されたムスメガールたちの名簿もある。奉行所は一般家庭の娘をラシャメンとして斡旋した者たちの店を営業停止とし、主人をはじめ手代などに重い罰を課した。

 

 さらに「ムスメガール」を改めて禁止し、娘たちの父16人を奉行所に呼び出して厳しく叱責した。その上、父らには自宅手錠3日という罰を与えて、二度と娘をラシャメンにしないと誓わせたという。

イメージ/イラストAC

<参考>

■『幕末開港綿羊娘情史』国立国会図書館蔵

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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