けばけばしい遊女ではなく「素人娘」を妾にしたい…… 「ムスメガール綿羊娘」の元祖・お鶴とは?
■淑やかな日本人女性を所望した「ムスメガールブーム」
幕末に開国を迫られて以降、日本に居住する外国人男性の性の相手となり、実質的な妾として私生活を満たす女性の需要が問題になった。そういう女性は「綿羊娘(ラシャメン)」と呼ばれ、あの渋沢栄一すら嫌悪の対象としたほど「汚らわしい」存在として忌避されたという。昭和初期に刊行された『幕末開港綿羊娘情史』は、そんなラシャメンたちにまつわる出来事を綴っている。
横浜の居留地でラシャメンになるのは、いわゆる“遊郭ラシャメン”、つまり遊女が大半だった。遊女以外で「ムスメガールラシャメン」の元祖となったのは、英一番館のガワールという人物に囲われたお鶴という女性だったらしい。文久元年のことだった。
それに先立って、江戸では蕎麦屋の娘・お花や寺の娘・お香乃という女性らがラシャメンになった記録があるようだが、江戸ではその後ラシャメン文化が薄れて、その主な舞台は横浜へと移っていく。
同書で「英一番のガワール」と記されるのは、居留地でも屈指の大商人。最初は横浜の二大妓楼の1つである岩亀楼の遊女をラシャメンとして迎えていたのだが、あまりにけばけばしいのに辟易して、2~3ヶ月で追い出してしまったらしい。そこで「素人の娘」に着目し、「ムスメガールが欲しい」と熱望するようになった。
神奈川の旅館「下田屋」の主人が英一番館に出入りしていた縁もあって、ガワールは下田屋によき娘の斡旋を頼んだが、遊女ではなく一般女性を所望とあっては当然難航する。四苦八苦している時に出会ったのが、外商と日本人商人の間に立つ仲買を務めていた伊勢屋平吉という男だった。元々は勢州(伊勢)の生まれだったが、横浜に移住して妻女を呼び寄せて暮らしていた。その男の娘こそ、当時20歳前後のお鶴だったのである。
平吉は提示された桁違いの給金に飛びつき、娘に対して「お前がラシャメンになれば、月に40両出すと言っている」と諭した。とはいえ当時は「異人に性を売る女」と蔑まれたのがラシャメンである。当のお鶴は嫌がっただろうと思いきや、本人も比較的前向きだったという。外国人の妾同様になるのと引き換えに普通では手に入れられないほどの給金を得て、衣服や持ち物まで贅沢を極める様子は、一部の人間からは密かに羨ましがられるほどだった。お鶴もまた、同書曰く“栄華贅沢の綿羊娘に感化された”女性の1人だったというのだ。
遊女ではなく「善良な家の娘」を所望したガワールにとって、お鶴はうってつけの存在だった。そしてそれを機に、「日頃は慎ましく、ラシャメンを忌避してみせる女性もあれだけの給金があればラシャメンになるのだ」と味を占めた者たちが、外国人男性に対して「奥ゆかしく品のある日本女性」を斡旋するために奔走することになったのである。そうして一般家庭の娘がラシャメンになると、人目を避けて夜ごと自分を雇う外国人男性の家に通ったのだという。

イメージ/イラストAC