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日本国民が「名字」をもつようになったのはいつか? なぜ「名字」を名乗らなければならなかったか、その理由とは⁉

名字と家紋の日本史#04

 

■古きを捨てた大改革で全国民が名字を持つ

 

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 明治時代になると封建的社会が終わり、名字の事情が大きく変化した。明治3年(1870)の「平民苗字許可令」、翌明治4年の「戸籍法」、同年の「姓尸不称令」を経て、明治8年に「平民苗字必称義務令」が公布されると、すべての国民が名字を持つことが義務となった。それまで現世を捨て、名字も捨てた出家者も同様だった。これにより明治政府は個人単位の徴税や徴兵を円滑に管理できるようになった。「姓尸不称令」では、公用の文書で姓氏の使用を禁じ、名字と実名のみを記すことが決められた。支配階級の者が根源的な出自を表現する姓と氏の役割は、万民が用いる名字に集約されたのである。

 

 江戸時代の村落で正規構成員として認められるのは、土地を所有し貢納の義務を負う者である。名主層は武士から帰農した者も多く、元々土地や名字・家紋も持っており、明治時代になってもそのまま名字を通用した。

 

 一方で、本百姓の隷属下に置かれていた者は、多くが名字を持たなかった。彼らは名字必称の令が出ると、主人や名主層の名字をもらう者や、所属する寺院に名字を選んでもらう者、そして自身で新たに設定する者もいた。中には古来の名字のように、住んでいる土地の自然や地形、また方位方角にちなんだ名字も選択されただろう。そして家紋も名字と同様の流れで用いられるようになった。

 

 名字とはすなわち社会秩序の根源であり、すべての国民が平等に負うべき権利と義務を担保し、「個人」という最小単位のアイデンティティを確立するための公認記号なのである。

 

 明治以降、和服文化が次第に洋装へと移行するに従い、家紋は結婚式や葬式など、ハレの場での使用以外の生活から少しずつ離れてゆくことになった。教育制度の普及で、識字率が上がったことで、個人の表記は名字だけで足りる時代にもなった。

 

 名字は少ない文字数の中に先祖発祥の情報を我々に伝えている。ただし、その基となる地名と併あ わせ、用いられている文字が嘉字(縁起の良さを重視した字)に変更されていることもあり、字面をそのまま受け取ることには注意が必要である。これは家紋も同じで、たとえ美しい草花をモチーフとしていても、必ずその裏に文化的で重要な意味が隠されている。それこそが名字と家紋の本質なのである。

 

監修・文/高澤 等

歴史人2025年11月号『名字と家紋の日本史』より

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