蘇我氏は本当に「天皇をないがしろにする悪者」だったのか? 蘇我氏滅亡の真の理由は?
『日本書紀』では、蘇我本宗家が乙巳の変で滅びた理由を「天皇をないがしろにして専横が過ぎたからだ」としていますが、本当にそうだったのでしょうか?
■大和国家の近代化の礎を築いた蘇我氏
歴史を語る『日本書紀』には皇位を簒奪しかねないほどの蘇我氏の専横ぶりが紹介され、ついに中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌子(なかとみのかまこ=藤原鎌足)によって滅ぼされた悪者ぶりが強調されます。しかしながら歴史書の常として前政権で強力な権力を誇った支配者一族が滅ぼされると、その悪行が論われて「滅びるべくして正義の味方に誅滅されたのである」という大義がよく記されます。
近年の研究で「蘇我氏は必ずしも悪者ではなかった」という主張が広がりつつあります。私もこの考えに賛成しています。例えば蘇我氏が主導した仏教文化の導入にしても、アジア諸国に比べて進歩の遅れていた大和国家の近代化を図ったのが主眼だったでしょう。
また飛鳥盆地は蘇我氏の根拠地ですが、蘇我氏は葛城・御所の再開発を力強く進めています。難波・河内との陸路を開発したり、現在の大阪府太子町周辺を整備したりしています。
厩戸皇子は斑鳩に宮を遷し、法隆寺などを建立して近代化の裏付けになる重要な新学問教育の拠点としています。両親の母親がいずれも蘇我稲目の娘である厩戸皇子はずばり蘇我の皇子です。

明日香村・都塚古墳石室内部にある馬子の父親稲目の石棺
稲目は仏教伝来に立ち会った時の大臣である。
撮影:柏木宏之
斑鳩は重要水路の大和川沿いで、首都につながる飛鳥川がすぐ上流の安堵町あたりに合流するという重大な拠点です。現代でいうと首都高速道路の重要なジャンクションだといえるでしょう。そしてやはり河内につながる龍田道という陸路の開発も始まります。つまり蘇我の皇子である厩戸皇子は、国際文化導入の交通の拠点として、また首都防衛の戦略拠点として斑鳩地域を直轄したという事だと考えられます。
同時に蘇我氏は『国記・天皇記』を書承化して完成させ、十七条憲法や冠位十二階の制定に積極的でしたが、それらは近代化を目指して東アジアの国際社会に大和国をデビューさせるために絶対必要な条件でした。
そしてまだ税制の無かった大和国の財政は蘇我氏を中心とした豪族の財力で賄われていたといえる時代ですし、大王家には蘇我稲目が外戚となる皇子や皇女が大勢いましたので今後即位する皇子や皇女には蘇我氏の子女が多かったことを意味します。つまり大臣蘇我馬子に任せておけば、大和国は平和で安泰に運営できていたのでしょう。
しかしながら馬子は崇峻天皇を擁立しておきながら弑逆したり、大王家の婚姻を左右させたりして君臨していました。つまり後から悪行といわれても仕方のないこともしています。そのうえ兄弟相続が当たり前だった当時に、蘇我氏は嫡男相続を始めます。これにより蘇我氏内部では不満がくすぶっていたことも事実でしょう。

石舞台古墳
蘇我氏絶頂期を築いた大臣蘇我馬子の大方墳
撮影:柏木宏之
では乙巳の変で蘇我本宗家の蝦夷と入鹿が暗殺された後はどうなったでしょうか。大化の改新という近代化が始まったとされていますが、蘇我氏はすでにその準備をしていたことは明白です。むしろ近代化の先頭で指揮をしていたのが蘇我氏だったといえるでしょう。
乙巳の変によって重要な変化は、名を変えた中臣鎌足(=藤原鎌足)が蘇我氏に代わって大和国を支配した事です。鎌足は中大兄皇子、すなわち天智天皇を助けた忠臣だとされますが、本当にそうでしょうか? 藤原家が権力の中心に座っただけのことではないでしょうか。
藤原家が権力の中心にいて鎌足の息子の不比等が都を平城に遷すほどに大権力をふるっている西暦720年に完成する『日本書紀』の中で、旧権力だった蘇我氏が悪しざまに取り扱われるのは当然でしょう。
同時に鎌足の出生についてはあやふやで、その素性がはっきりしないようにも思います。鎌足は本当に中臣家の人物だったのでしょうか? 生まれたのは常陸の国だったのでしょうか、飛鳥なのでしょうか? 彼はどんな勢力をバックに現れたのでしょうか? そして蘇我本宗家を大規模な謀略で滅ぼした真の目的は何だったのでしょうか?
ヒントは朝鮮半島情勢にあるとしか考えられません。さらに蘇我氏の外交政策にあったのかもしれません。当時の蘇我氏体制を大和の人々がどう思っていたのだろうかという事も大事なヒントになるかもしれません。そして27年後にまき起った壬申の乱の真の原因は何だったのか?など、考えるべきことはものすごくたくさんあるように思います。
私はもっと詳細に年月はおろか日にちまでシンクロした東アジア各国各地域の記録があればと思います。蘇我氏本宗家が瞬時に滅ぼされた最大の原因は、外交問題にあったと思っているからです。
日本古代史を探る時に主眼が日本列島内に集中しがちですが、少なくとも東アジア全体の情勢の中での日本史でないといけないと思っています。弥生時代やそれ以降の古墳・飛鳥時代は、現代の私たちが想像する以上に海外の情勢をシビアにとらえていたし、影響が大きいと私は思っています。
そういうグローバルの中の日本古代史というローカルを解くには、東アジアの歴史研究者と真摯な共同研究が必要だと思います。平和な関係で共同研究が自由に行える時が来ることを期待しています。蘇我氏とは何者だったのか? なぜ蘇我氏は滅びたのか? その真の理由は何だったのか? そういう疑問が解けたら、蘇我氏の正当な評価ができるはずです。