明治天皇が騎兵の訓練を見学した建物が、いまは「空挺館」と名前を変えて陸自精鋭部隊の敷地内に残る
滅びゆく近代軍事関係遺産を追え!【8回】
■自衛隊最強の習志野第一空挺団
千葉県船橋市の習志野原に、現在「最強」と称される陸上自衛隊第一空挺団が所在する。首都防衛の要であり、実践的なパラシュートレンジャー部隊を基幹とする空挺部隊で、近年課題となっている南方島礁部防衛の最重要即応部隊として注目を浴びている。
この第一空挺団の敷地には、落下傘降下訓練施設が多数建設され、毎年自衛隊の「仕事始め」となる1月の「降下訓練始め」には、東京の防衛省本省から防衛大臣が多くのマスコミ関係者共々大型ヘリコプターで来訪、これまた多数の見学者が詰めかける中、上空より大型輸送機からの降下訓練が実施される。
大型輸送機は埼玉県入間基地から、大型ヘリコプターは千葉県館山基地から飛来し通常高度からの降下とともに、島礁部逆上陸を想定しての降下もあり、華やかなパラシュ-トの花蓮の中、緊張感も増す訓練となっている。

降下訓練を行う第一空挺団
■真っ白な空挺館
この第一空挺団敷地内に真っ白な二階建ての建物「空挺館」が残っている。
元来、明治44年(1911)、東京駒場の陸軍騎兵実施学校内に建設された「天皇陛下御馬見所」が、大正5年(1916)の習志野移転に伴い、翌年同建物もこの地に移築された。重量物の移転が困難なため、外観内装も異なり、内部は洋風コロニアル建築に変更している。

駒場から移築された現空挺館(御馬見所)
戦後はしばらく「皇族館」と呼ばれていたが、第一空挺団敷地内ということから「空挺館」と改められた。東日本大震災で大きな被害を受けたが、大規模修繕工事を経て、現在は年数回の一般公開も可能となっている。
二階には、秋山好古将軍をはじめとする歴代習志野騎兵旅団長関係および同騎兵出身で硫黄島防衛司令官だった栗林忠道将軍や同じく騎兵出身のロサンゼルス五輪金メダリスト西竹一などの関係資料が展示されている。一階は陸軍落下傘部隊の記録が、昭和17年(1942)2月の当時オランダ領スマトラ島パレンバン(現インドネシア)降下作戦の資料や、昭和20年(1945)4月「義烈特攻隊」として沖縄に降下した作戦まで展示している。現在の陸上自衛隊空挺団がこれら陸軍落下傘部隊の系譜上にあることを示唆する内容となっている。

空挺館に展示されている秋山好古の肖像
■栗林忠道とバロン西
前述した騎兵出身の2名は、共に硫黄島の戦いで戦死したことが広く知られている。西は東京麻布の華族の家に生まれ、習志野騎兵旅団に所属していた昭和7(1932)年にロサンゼルスオリンピックの馬術競技に参加。当時最終種目であった競技で金メダルを獲得した。本人の出身から「バロン西」と称賛され、一躍全世界に知れわたった。
その後、戦車隊に移り、硫黄島の戦いで戦死するが、戦闘中には米軍が「バロン西に投降を呼びかける放送」をしたとされている。
一方、長野県出身の栗林は陸軍内でも「知米派」将軍として有名であったが、大戦末期、硫黄島守備司令官に任命されると「本土決戦の礎」として同島を数日でも保持する目的から、それまでの水際迎撃作戦を破棄、徹底的に島内部に敵を引き込み重層的永久洞窟陣地で長期戦闘を意図する作戦を実行した。
2006年、クリント・イーストウッド監督によるアメリカ映画『父親たちの星条旗』と『硫黄島から手紙』で一躍これらの人物が有名になり、2024年のパリオリンピックで日本馬術チーム(初老ジャパン)がメダルを獲得した際に、西竹一が再び脚光をあびた記憶が新しい。

西が友人に送った馬術長靴