95年前のきょう、東京駅のど真ん中で起きた「首相銃撃事件」 軍令部や野党の反対を押し切って“軍縮に調印”した結果…
■濱口雄幸首相銃撃事件
1930年11月14日午前9時前、濱口雄幸首相の姿は、岡山に向かう列車に乗車するため東京駅にあった。昭和天皇の陸軍特別演習視察に供奉するためである。しかし、ホームに向かう途中、愛国社(右翼結社)の佐郷屋留雄(さごうやとめお)に狙撃され重傷を負った。
近くの鉄道病院から、医師がかけつけた。その医師が思わず、「総理、たいへんなことに」とつぶやくと、浜口は薄く目を開けていった。「男子の本懐です」苦痛は激しかったが、意識は明瞭であった。
これは城山三郎の名著『男子の本懐』の一節である。城山は、昭和初期激動の政治状況を詳らかに書き記している。
ロンドン軍縮条約問題に反発する佐郷屋は犯行の動機を「統帥権干犯」と言っていた。政府の軍縮問題への関与は頂点に存在する天皇の統帥権を侵すものという発想である。しかし、彼は裁判では「統帥権干犯とは何か」に応えられなかったようで、そもそも天皇の大権なるものを理解していたか疑わしい。
佐郷屋は1933年に死刑判決となった。不可解だがほどなく無期懲役となり、出所後は愛国社の創設者である岩田愛之助の娘婿となり戦後にいたるまで存命した。
ところで、30年以上も前のことだ。かつて著者が加藤高明率いる憲政会の中核の政治家(濱口雄幸)を調査しているときだった。濱口の五女だった富士氏の消息を調べていたところ、富士氏が故・大橋武夫に嫁いでいることが判明した。ある日、著者の住むマンションの上段の郵便ボックスに大橋武夫と書いてあるネームプレートを見て驚愕した。その縁で何度も自宅に伺い『濱口日記』を見せていただき、その後『濱口雄幸日記 随感録』として出版する運びになった。余談だが筆者の学会報告では、司会をされた故・五百旗頭真教授がこの稀有な体験話を笑われながら出席者に説明されたことを鮮明に覚えている。
■濱口内閣の誕生と軍縮問題
さて、政友会の田中義一内閣が張作霖爆殺事件でその処理を巡って迷走するなか、ついに天皇の勘気にふれ総辞職した。対照的だったのは民政党総裁の濱口だった。料亭政治を嫌い、律儀で誠実な濱口は「随感録」に天皇への敬慕を詳しく記し、また天皇の姿勢が自身に勇気を与えることを常々書いている。
その天皇から大命降下があり、濱口は急ぎ組閣した。閣僚名簿を見た牧野伸顕内大臣は「意気込頼母敷感じたり」と記し、天皇も「良い顔触れなり」と述べたように、宮中では評判は良かったことがわかる。因みに同内閣の逓信大臣となった小泉又二郎は小泉純一郎の祖父になる。
さて、濱口内閣は蔵相に井上準之助を招いて金輸出解禁などを実行したが、おりから世界恐慌が始まっており経済政策は不調に終わった。金輸出解禁は台風の中、雨戸を開けたとしかいえない状況だった。しかし、同内閣が歴史に残した功績といえばロンドン軍縮会議の成果だろう。首席全権は民政党の若槻礼次郎、海軍からは財部彪海相が全権に名を連ねていた。
濱口首相は、軍縮問題は政府の処理案件であり、これに反対論を公然と述べる軍人は綱紀粛正をもって対処すると強硬姿勢を貫いた。政府と反対派との対立は抜き差しならない状況になっていた。
なかでも加藤寛治海軍軍令部長傘下の軍令部が強硬に反対、また東郷平八郎元帥や軍事参議官の伏見宮博恭親王という二人の海軍長老が反対、山梨勝之進海軍次官も元帥と皇族の対応には苦労していた(「財部日記」には、濱口と皇族の政治関与について憂慮する会話が記されている。実は原敬も皇族の政治関与からの棚上げについて「日記」に記している)。
その中で加藤軍令部長が反対上奏(帷幄上奏)をするため宮中に参内した。奈良武次侍従武官長(陸軍大将)はこれに対応するが、奈良は鈴木貫太郎侍従長(海軍予備役)にこの件を紹介、鈴木侍従長が加藤に会うことになる。職務上は武官長たる奈良の仕事だが、彼の職権で鈴木を会わせたことになる。
鈴木は、軍令部長たる者、与えられた戦力で対処するべきことで、交渉に反対するなど「宸襟を悩ましたてるのは不可」と上奏を阻止した。これは政府と海軍の方針が違うことになり、天皇が最後に決断することになれば天皇の「宸襟を悩ます」ことになり臣下の道に外れるというのだ。鈴木もまた心得ていて侍従長という肩書ではなく、加藤の前任の軍令部長という先輩後輩という形式で面会したのも詭弁だが興味深い。
さらに天皇は東郷に対し、元帥たる者は「達観」することを示唆、また鈴木は伏見宮親王に面会して軍縮問題についての話はあまり触れないように示唆したようだ。軍縮に不満だった親王は天皇にも反対論を話そうとしたが、天皇は何も発言せず、状況を悟った親王は以後沈黙することになる。ともあれ天皇をはじめ宮中は濱口首相を側面からサポートしていたのである。
■「ライオン宰相」濱口雄幸首相の決断
国内では軍縮賛成論、反対論が渦巻く中、1930年3月27日、濱口首相は参内して天皇に軍縮交渉の経緯を説明、天皇に「世界の平和のため早くに纏めるよう努力せよ」と言葉があった。「日記」のハイライトというべき記述である。この発言も政治臭の濃い話だが、天皇の性格を表している。濱口首相の『日記』にはこれを機に「自分の信念愈々固し」と書いている。天皇のお墨付きをもらった濱口は決断したのである。
同年4月13日、英大使館では高松宣仁・喜久子夫妻の渡欧歓送迎会が開催された。席上、天皇は、ロンドン軍縮会議が「日英米三国の協調に依り満足な結果を期待し得る事態に至りては此上もなく悦ばしく」とのスピーチがあった。軍縮についての明白な発言に、通訳していた外務省の沢田廉三は内容を聞いて「そのまま通訳していいのか、判断に一瞬迷って急に体中の血が頭に駆け上がるように感じた」と回顧録に書いている。大使館での発言とはいえあまりの重大な内容だった。外務省幹部には歓迎すべき発言だが公の場で軍縮をサポートする発言は外部に伝わると反対派を刺激することになるので危惧したのだ。
その場にいた鈴木侍従長も同じだった。幣原喜重郎外相は、天皇発言をロンドンの日本の全権団に送った。彼らへの激励も兼ねていたのだろう。しかし、この電報には、一木喜徳郎宮相、鈴木侍従長、外務省幹部のサインがあり「メモ」が記してある。そこにはこの電報の中身について、新聞記者など漏らさないように特別「配慮」して欲しいというものだった。このような外務省電報はそうそう存在するものではない。鈴木侍従長の「宸襟を悩まし奉る」というフレーズは、ロンドン軍縮を巡り政界が混迷するなか、天皇に明白な姿勢を見せた一例だが、天皇の側近たる国際協調派は以後「君側の奸」と睨まれるようにもなる象徴的な事件でもあった。
狙撃された濱口は入院していたが、首相に代わって幣原外相の覚束ない答弁に政友会は「統帥権干犯」を持ち出して政府を追及した。政党政治の実現を目指していたはずの政友会には自爆的な行動であり政党政治の崩壊を意味することになる。
政友会の追及に業を煮やした濱口首相は、1931月1月に強引に退院して議会での答弁に立ったが、これがもとで体調は悪化、4月に入り再入院したが8月に死去した。満州事変が勃発したのは翌月のことだった。

浜口雄幸/国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)