メジャーリーガーが「商売人」と呼ばれた時代 スポーツとメディアの関わりに“商機”を見たのは大阪毎日新聞だった
あなたの知らない野球の歴史
■セミプロ球団を運営した大阪毎日新聞社
19世紀後半、オリンピック・ムーブメントが誕生するなか、スポーツが国際社会に拡散する時代が到来した。早くから大衆にニュースを提供していた新聞の一つが「大阪毎日新聞(以下、大毎)」だった。同紙は「海外に各国における20世紀文明の真相を視察」し「読者の知識と興感の増進に資する」という大きな目標を立て、1907年に海外派遣特派員制度を整備した。ラジオやテレビまだない時代、島国日本には、国際社会の状況を知らせるには新聞が大きな役割を果たすことになる。
1909年には『大毎』は神戸・大阪間の長距離のマラソン競技を開催している。こうした経験を積み重ねて『大毎』は、スポーツ経験者を自社に就職させるようになった。日本のスポーツ文化の発展を見据えた進化だった。
それが新たな部署の設置につながることになる。1911年のことだ。それまで社会部が担当していたスポーツ分野だったが、運動課を設置して、同課に早大野球部出身の西尾守一を招いたのである。彼は本格的なスポーツ記者の草分けとなる。『大毎』には、運動課を設置するだけの発想、体力も備わっており、また新しい分野を開拓する広い視野をも持ち合わせていた。因みに1927年日本の女子陸上界の世界的パイオニアとなった人見絹枝(現在の日本女子体育大学)を卒業後、毎日の運動課に就職させている。このように明治末から昭和にかけての日本のスポーツ文化の拡散、浸透は、もちろんIOCからのオリンピック・ムーブメントの影響もあったが、欧米と違い大手新聞が販売部数を増やすという積極的関与と無関係ではない。それはライバル大阪朝日新聞も例外ではなかった。
慶大を卒業後、実業界に身を投じ、1903年に『大毎』の社長となった本山彦一の「事業は新聞政策の必要上行はるるものなるが故に、人気を対象としなければならない」という新聞事業に対する指導があり、当時中等野球とともに球界人気のあったに東京六大学野球関係者やOB選手を利用して販売部数を増やすことも視野に入っていたようだ。余談だが、原敬(後の首相)は本山の前任社長である。
この頃の特筆ものの記事の一つだが、『大毎』のニューヨーク特派員だった高田元三郎(その後、『毎日』の代表取締役)による100年前のベーブ・ルースのインタビュー記事が『大阪毎日新聞』が1920(大正9)年8月21日付に載っている。
紐育ポログランドの選手席で本塁打王ルースと語る。
大決心で商売人チームに投じた彼
早く母を喪ひ厳格な父に育てらええた彼は
遠き日本の野球選手諸君への伝言と共に
ホームランの秘訣を説く
とある。さらにルースは、ボールにサインして「之を毎日新聞に呈しますと云ふ」と話してバッターボックスに歩んでいったという。
さすがに大正時代の新聞記事だけに文面は硬いが、ルースが大毎に敬意を評しボールにサインをしてくれたことはわかる。この時代、ルースとグランドで接触する日本人記者は皆無に等しい。珍しい取材でもある。現在、このボールは毎日の本社にあるのだろうか?またメジャー野球について、当時はまだ「商売人チーム」とプロ野球選手は紹介されているのが彼らの一般的認識だったことも判明する。ハーバート・ハンターから野球指導を受けた早大の選手を見ていた安部磯雄がメジャー選手を「商売人」と呼んでいたことでも彼らの共通認識だったようだ。
1920年、日本運動協会という日本初のプロ球団が創設された年に、『大毎』は東京六大学野球のOB選手を中心に「大毎野球団」というセミプロ野球チームを創設した。1925(大正14)年にはアメリカ遠征をして、当時の第30代クーリッジ大統領を表敬訪問している。
1924年には、『大毎』は、選抜中等学校野球大会(のちのセンバツ)を始めた。第1回は名古屋で開催している。関西では野球は盛んだったがまだ甲子園球場はなく、野球ファンを増やすため、当然それは新聞拡販の一策でもあった。ともあれ当時の新聞販売でトップに位置した『大毎』をもってしてもプロチーム創設には着手しなかった。まだプロのイメージがわかず様子見だったのか、オリンピック精神が影響してスポーツはアマチュアリズムとの意識が浸透していたのか、弱小新聞だった読売がプロ球団創設に傾斜するのとは大きな違いがある。

昭和初期の大阪毎日新聞本社ビル/国立国会図書館蔵