プロ野球に75年前に参入した“毎日オリオンズ”の歴史に辿れば、昭和初期の日本企業の「栄光と没落」が見えてくる
あなたの知らない野球の歴史
■オリオンズ栄枯盛衰の歴史
1949年のシーズンオフ、1リーグ8球団だったプロ野球界は紛糾していた。戦後復興の中で新規加盟の要望が連盟に殺到したのだ。当時反正力派が率いていた読売は、ライバルの毎日新聞(1943年に毎日新聞に統一している)が加入することに反対したが、球界はまとまらず、ついに日本野球連盟のコミッショナーだった正力松太郎が2リーグ制を宣言した。関西地域で読売新聞の販売拡大を図るためにも毎日の参入は最終的に賛成された。
パ・リーグは鉄道系の会社(阪神・阪急・南海・西鉄)が毎日を引き込むつもりだったが、巨人戦の観客を失いたくなかった阪神はセ・リーグに移動してしまった。阪神の動きは異例だが、他方で多くの企業が球団創設に動いていており球界の紛糾はしばらく続いている。
その後パ・リーグでは毎日新聞が母体になり「毎日オリオンズ」(以下毎日と記す。現在の千葉ロッテマリーンズ)が誕生した。こうして2リーグ制が1950年にスタートした。
毎日は大新聞だったこともあり球団創設に対し、最初からパ・リーグの盟主として期待され、総監督には本社の運動部長だった湯浅禎夫が就任した。彼は戦前明大の名投手だった。しかし、毎日の球団創設に際し、湯浅は本社からの出向という身分だった。この片手間のような扱いから毎日のプロ野球への熱心度が推し測れる。また監督には阪神の前任監督だった若林忠志が就任した。読売と逆に毎日は関東進出を考えていたため、東京の後楽園を本拠地とすることになる。
毎日はプロ球団に傾斜していったが、以前から選抜高校野球や社会人野球の都市対抗野球大会を主催し、アマチュア野球との関係も強く残していた。社内ではスポーツにおけるアマチュアリズム至上主義が支配的だったようで、会社で一丸になってプロ球団を育成するという意識は薄かったようだ。なお1950年から1957年までが毎日オリオンズ、1958年から1963年までが大毎オリオンズ、1964年から1968年までが東京オリオンズと、名称が変更されるのもその影響があったかもしれない。
球団保有について、読売と毎日の違いについて、大毎オリオンズの監督を務めた宇野光雄(慶大卒で国鉄、大毎の監督を歴任)はなかなか面白い指摘をしている。
「・・・読売の社員というのは巨人と共に大きくなった感じですね。だから社に行っても巨人に対する気持ちが違うのです。毎日というところは元々大きいところへ球団ができたのですから、・・・球団は別になくなったって会社は大きいのだという感じでね。ちょっと違う。読売はいくと社員全部が読売新聞というのは、巨人と共に歩んで大きくなったという感じだから、この球団は離せないというものだと感じで、全体が巨人に愛着を関心を持っていますね。毎日はそうじゃないですね。・・・球団の調子が悪くても、我関せず、こういう社員もだいぶいるわけです。・・・」
アマチュアスポーツに熱心だった会社環境もあり、読売ほどの熱量はなかったようだ。これに対し読売と巨人は、表裏一体で成長してきた。「鈴木惣太郎日記」などを見てみると、シーズン前の巨人の激励会やシーズン後の慰労会には読売の販売店の関係者が多数集まり大賑わいとなっていたことが記されている。
1950年から始まったシーズンでは毎日オリオンズがパ・リーグ初代王者となった。若林忠志、土井垣武など他球団から引き抜いた選手が大活躍だった。
日本シリーズでは、松竹ロビンスと対戦。創設一年目で日本一となっている。占領時代の影響もあり「日本ワール・ドシリーズ」(日本シリーズとなったのは1954年から)と呼ばれた。妙なネーミングだが「メジャーへ倣え」との野球連盟の志向が反映されたのである。
さて2リーグ制が始まって球界は盛況になるかと思えたが、順調とは言えなかった。むしろ2リーグ分裂により観客動員は低迷している。セ・リーグは巨人戦を中心に観客が戻り始めたが、パ・リーグは南海ホークスが力をつけ、毎日は強豪ながらも観客が増えなかった。毎日は関西地方で人気上昇中のライバル、南海ホークスを紙面で取り上げることも増え、ついには九州地区で販売部数が減少。1958年には大映スターズ(映画会社)との合併で毎日大映オリオンズと名称変更し、毎日は球団役員を引き上げた。
オーナーの永田雅一はアメリカ映画に関心があり、ついに毎日は球団経営から手を引いた。永田はメジャー志向を強め、1964年には企業名を外して東京オリオンズとなった。当時としては革新的なネーミングだった。巨人も戦前、東京ジャイアンツとアメリカで紹介されたこともあるのだが。
永田は「永田ラッパ」や「映画界の父」と呼ばれた財界人で、都心の球場不足を憂いて東京スタジアムを建設したのも彼の発案である。ディズニーランドとの提携もあったが映画産業の斜陽化により、1968年に球団を手放しロッテに売却された。オリオンズ(現在のマリーンズ)の親会社の歴史を見れば新聞社から映画産業、菓子メーカーと日本の企業の栄枯盛衰の歴史でもある。これは他球団でも同様で、親会社たる企業の栄枯盛衰と所有するプロ球団の関係は密接不可分というのが日本的プロ野球の特質でもある。

東京スタジアム跡には現在、荒川総合スポーツセンターが建っている