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古代日本には多く存在した「女性天皇」どのように選ばれ、どのような役割だったのか?─世間をにぎわせる「女性天皇」を問う─

女性天皇の真実 #01

 

推古天皇が遷都した小墾田宮だと推定されてきた遺跡「古宮遺跡」

 

■古代に多く存在した女性天皇

 

 歴史上の女性天皇は古代に多く、6人の即位がみられ、そのうち2人が退位後、再び皇位につく重祚(ちょうそ)をおこなっている。したがって、古代の女性天皇は6人、代数は8代になる。女性天皇の役割について以前は、想定外の事件が起きた際の中継ぎとする考えがいわれていた。しかし、近年は他にも種々の理由が考えられると指摘されている。

 

 初の女性天皇である推古(すいこ)天皇の場合は、推古元年(592)に崇峻天皇の暗殺という大事件が起きた。そこで、群臣たちが擁立したのが敏達(びだつ)天皇の皇后であった推古とされる。最近の研究では群臣の存在が注目されており、彼らの会議が皇位継承者の決定に大きな役割を果たしたといわれている。会議のリーダーは蘇我馬子であり、馬子の主導で立てられたといえよう。

 

 2人目は皇極天皇である。舒明天皇の皇后であり、中大兄皇子・大海人皇子の母である。皇極は夫の死後、中大兄皇子の擁立を望んだが、時の権力者であった蘇我蝦夷は古人大兄皇子の即位を画策した。古人大兄皇子は舒明法提郎媛との間に生まれ、法提郎媛は蘇我蝦夷の妹にあたる。また、舒明との皇位争いに敗れた山背大兄王もいまだ皇位への望みを捨てきれてはいなかった。こうした複雑な状況下で妥協案が皇極の即位であった。皇極はさしたる業績がみられず、大化元年(645)の乙巳の変ののち弟の孝徳天皇に譲位した。

 

 孝徳の死後、皇極が重祚して斉明天皇となった。本来、孝徳のあとは皇太子の中大兄皇子が即位すると思われるが、中大兄皇子がやや若いとか、孝徳の皇后で中大兄皇子の同母の妹である間人(はしひと)皇后との間に関係があったともいわれ、とにかく即位することはなかった。そこで斉明が重祚したが、前回の即位とは一変し運河の建設など積極的に土木工事をおこない、人々から「狂心渠(たわぶれごころのみぞ)」などと非難された。

 

 天武天皇のあと皇位についたのが皇后の持統天皇である。持統は当初、天武との間の子である草壁皇子の即位を願っていた。しかし、皇太子となった草壁は体が弱く病死してしまう。その後持統は即位するが、その目的は草壁の直系の皇子だけが皇位を継承するという原則をつくることにあったといわれている。そのため、草壁の子でまだ幼なかった文武天皇が成長するまでの時間を埋めなければならなかった。朱鳥5年(690)に即位した持統は、7年後に譲位するが文武も病弱で慶雲4年(707)に亡くなってしまう。文武には大宝元年(701)に聖武天皇が誕生していたが、あまりに若い。そこで草壁の妃であった元明天皇が聖武即位までの中継ぎ的な存在として即位した。元明はそれまでの女帝と異なり天皇の皇后ではなかったが、皇太子の妃という立場から皇后に準じて扱われた。

 

 その次には、元正天皇が皇位についた。父は草壁、母は元明である。天武・持統の直系の孫娘であり、元正も皇后ではないが、持統は病弱な文武にもしものことがあった場合、元正に期待していたともいわれる。しかし、文武が死去した場合も、長皇子ら天武の皇子たちがまだ残っていたため、バランスをとって元明が皇位につき、配慮がいらなくなってから元正が即位したともいわれる。

 

監修・文/瀧音能之

『歴史人』2024年10月号「天皇と皇室の日本史」より

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