『長崎 ―閃光の影で―』原爆を「忘れる」なんてことが決してないように
◼️何事もない日常というものがどれほど尊いものか
太平洋戦争が終わり、80年を迎えた。
日本の外務省のホームページに記されている一文がある。
「日本には、唯一の戦争被爆国として、核兵器のない世界の実現に向け国際社会の取組をリードしていく責務があります。」
まったくもってその通りであり、この理念に疑いの余地はない。しかし、ある新聞社のアンケートによると先の参院選の当選者125人のうち8人もの議員が「核兵器を保有すべき」と回答している。つまりは、国民がそういう人たちを国会に送り込んだということになる。時代は変わっていくということなのだろうか。
そんなことを思いながら、映画館へ『長崎 ー閃光の影でー』(松本准平監督)を観に行く。
昭和20年(1945)8月9日。長崎に原爆が投下された直後、懸命に救護にあたる3人の看護女学生たち(菊池日菜子、小野花梨、川床明日香)を描いている作品である。
突如、身に振りかかる、なにがなんだか分からない大爆発。戸惑い、不安、恐怖、怒り。まったくまとまらない感情を抱えながら、彼女たちは治療に奔走する。自らもケガを負い、肉親も傷いたり、命を落としていたりすることにも耐えながら。
けれども、助けられる人よりも亡くなっていく人が多いという現実が彼女たちの心を痛めつける。
「この救護に意味はあるのだろうか……」
負の感情が積み重なり仲の良かった彼女たちは言い争う。それがなんとも辛く悲しい。
原爆投下後、長崎では約500名の看護婦が招集されたとのことである。その誰もが、原爆の引き起こした理不尽にさらされながら劇中の彼女たちのように救護にあたったのであろう。
本作品の鍋島壽夫プロデューサーは『TOMORROW 明日』(黒木和雄監督/1988年公開)のプロデューサーでもある。
長崎への原爆投下前日の日常(むろん、戦時下の日常であって平時のそれではないが)が淡々と描かれ、それゆえに胸が締め付けられる作品である。「何事もない日常」というものがどれほど尊いものかを思い知らされる。
いま、中東では虐殺まがいの行為が平然と行われている。ウクライナを巡る戦争は終息の兆しはまったく見えない。
イスラエルもロシアも核保有国である。戦争を引き起こしている彼らがその発射ボタンを押さないと誰が断言できるだろう。
時は経つ。
経てば記憶も薄れていく。
「みんな、忘れていくとやろか」
劇中で女学生の一人が言うセリフである。
みんなが忘れれば無かったことになってしまうかもしれない。核武装を求める政治家が現れ始めたということは、そういうことなのかもしれない。そんな日本に、80年前と同じことが起きないと誰が胸を張って言うことができるだろう。
30年以上前にBeforeを製作した人が、いま、Afterを描く意味を、深く考える。
「決して忘れられない日々がある」
劇場内のポスターの惹句が目に入った。
「非核三原則」がゆるがせになりつつある今、この声はもっと大きくしなければならない。私たちは、この国に生まれた者の責務として長崎、広島で起きたことをしつこいまでに伝え続けなければいけないのだ。
「忘れる」なんてことが決してないように。

長崎平和公園 写真/AC