徳川幕府から「警戒」された北出羽の雄・秋田実季
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第79回
■羽州の狐と呼ばれた最上義光に「警戒」された実季
関ヶ原の戦いにおいて、秋田家は最上義光(もがみよしあき)を主将とする会津征伐軍に編入され、東軍方として山形に駐屯しています。
家康率いる本隊が、三成挙兵の報を受けて西へ転進した事で、伊達家と上杉家が密かに講和を結ぶなど東北では厭戦ムードが広がります。最上義光も上杉家との停戦を図ります。
しかし、義光が秋田家と連携して庄内地方へ侵攻するという密約が漏れてしまい、上杉軍の侵攻を受けることになります。こうして、北の関ヶ原と呼ばれる慶長出羽合戦が始まります。
実季は義光の指示に従わずに、攻撃先を上杉領の庄内地域から仙北の小野寺家へと臨機応変に変更しながら戦い、奥羽地方での東軍勝利に貢献しています。
一方で、このような実季の動きを「警戒」した義光によって、秋田家は軍令違反を犯したとして幕府に訴えられることになります。その結果、弁明に成功し改易は逃れたものの常陸国宍戸5万石への減転封となります。
この時、太閤蔵入地の約2万石を没収された事が不満だった実季は、一時的に名字を伊駒に変えたという逸話が残されています。
その後、大坂の陣にも参加しますが、1630年に突如として改易となります。
ただし、嫡子俊季(としすえ)が母を通じて徳川家と縁戚関係にある事が幸いし、家督の継承が許され、あらためて常陸国宍戸5万石を拝領します。
実季が排除された原因は、秋田家に戦国時代の気風を残しているという事が主な理由だったと言われています。一方で俊季との不和や家中の派閥争いという説もありました。
改易に至る詳細は不明ながらも、実季への「警戒」は強いものだったようで、約30年間も伊勢の永松寺の草庵にて蟄居させられ、赦免されることなく同地にて死去しています。
■有能であることは周囲からの「警戒」に繋がる
実季は周辺勢力を巻き込んだ後継者争いに勝利し、中央政権との関係性を活用して、北出羽での勢力地盤を固める事に成功していました。
しかし、最上家などの周辺勢力から「警戒」され続けていたようで、最終的には幕府によって理由不明ながらも秋田家から実家の排除が図られています。
現代でも有能であるが故に、逆に「警戒」されて排除の対象にされる事は多々あります。
もし、実季が最上家に従う姿勢を見せていれば、秋田県を代表する大名として名を残していたのかもしれません。
ちなみに、管領家の細川昭元の子元勝は秋田家との縁から客将となり、子孫は秋田家の一門衆かつ大老格として遇されています。
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