古代エジプト王国のファラオで最も偉大なのは誰? 絶頂期のエジプトを治めた王の功績と罪
本当はおもしろい「古代エジプトの歴史」入門⑨
「世界四大文明」のひとつであるエジプト文明が隆盛を極めた古代エジプト王国。数千年にわたる長い歴史と地中海域を含んだ広大な領土を誇る王国を治めた歴代ファラオのうち、ナンバーワンを決めるとしたら、一体誰になるのかを考えてみよう。
■絶対的な存在として君臨し、王国に富と繁栄をもたらした大王
時間的に考えれば王朝時代だけでも3000年以上あり、また地理的には広く長いナイル河流域を支配しただけではなく、北東に当たる現在のシリア・パレスティナや南のスーダンまでをも支配下に置いていた古代エジプト王国。そのなかで「最もすごかった」ファラオとして一人を挙げるとすれば、賛否両論はあろうが、やはり大王ラメセス2世(写真1)ということになるだろう。

(写真1)ラメセス2世のレリーフ
撮影:大城道則
同時代および現代でさえ、彼の名前は世界中にとどろき、大王のなかの大王と称されている。ルクソールのミイラの隠し場から発見され、現在カイロ博物館で展示されている彼のミイラは、保存状態の良いその美しい顔で知られている。このミイラがフランスで展示されることが決まった際には、エジプト政府からパスポートが発行されたというエピソードはあまりにも有名だ。3000年以上経った今でもラメセス2世はやはり「エジプト王」なのである。
栄華を極めた新王国時代第19王朝3代目のファラオであったラメセス2世は、90歳を超えてなお王位に就いていたパワフルで長寿の人物だった。そのためネフェルトアリを代表とする幾人もの王妃や側室、あるいは100人を超えていたとも言われる子供たちに先に逝かれるという悲劇が起きてしまったのである。
王位継承者たちも王よりも先に次々と死去していった。ラメセス2世の後継者として王位に就いたメルエンプタハは、なんと13番目の王子だった。そしてそのことは、身近な人たちを何人も何十人も見送るという人としての感情的な悲しみだけではなく、実質的な国の政(まつりごと)や運営にも大きな支障をきたすことになっていった。つまりエジプト王国は、本来であれば王位に就くべきであった優秀な人材が王位に就く機会を逸する事態となったのである。
ラメセス2世の治世を一つの頂点として繁栄したエジプトが、その後の斜陽の時期へと向かう一つの原因が長すぎた一人の権力者の治世にあったのではないかと思う。確かにエジプトに長期の平和と安定、そして莫大な富をもたらし、古代エジプト王国の名声を周辺各地に知らしめた現人神(あらひとがみ)ラメセス2世ではあったが、彼もまた人間であり寿命があったのだ。
しかしながら、彼の功績は現在でもエジプト各地において確認することができる。というのも彼は自身の名前をヒエログリフであらゆる場所に残しているからだ。「建築王」というその異名の通り、例えば神殿の壁面や巨大な円柱には彼の名前が王名枠(カルトゥーシュ)のなかにいくつも彫り込まれている。なかには先の王たちの王名を意図的に削り取って、そこに自らの名前を上書きした例さえある。
そして何よりも自分の名前を残すべきカンバスとして、国内外に巨大な神殿を幾つも建造・増改築した。テーベのカルナク神殿の列柱室、ルクソール神殿の塔門と中庭、ラメセウム(ラメセス2世葬祭殿)、そして何といってもアスワン南方にある巨大な岩を掘り込んだアブシンベル神殿(写真2)が有名だろう。

(写真2)ブシンベル神殿全景
撮影:大城道則
ある神殿では、大人の拳(こぶし)がそのままそっくり入ってしまうほど、彼の名前が深く彫り込まれている。この行為は深く彫ることで、後世の王たちに名前を削り取らせないことを意図したものだ。古代エジプトでは名前を失うことは、その人の存在そのものを抹消し、来世での復活を妨げる最も避けるべき行為であった。
またラメセス2世は、都を北のデルタ地域へと移動させた。「ピラメセス」と呼ばれたこの新しい都は、地中海に近いという利点を活かして交易を盛んに行い、戦略的に東方世界へと睨みを利かす役割を果たした。しかしながら、王墓はこれまでの王たちと同様にテーベのナイル河西岸にある「王家の谷」に造営された。煌びやかな宮廷生活を新都で過ごしたラメセス2世だったが、最後には伝統を重んじ、やはり祖先と同様の場所に埋葬されることを願ったのだろう。