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南海の楽園パラオに眠る「戦没者のご遺骨」ペリリュー島、アンガウル島、激戦の島々

パラオ戦没者遺骨収集のいま 


■第14師団満州からパラオへ

 

 1944年(昭和19)3月、満州チチハルに駐留していた第14師団に南への転身が命じられた。同師団は日露戦争時に創設された栃木、群馬、茨城、長野県出身者を中心に編成されたもので、衛戍地は宇都宮に置かれていた部隊である。その後、1940年満州チチハルに移駐していた。

 

 師団兵力は約12千人で、大連港から4隻の輸送船で出港、パラオ諸島コロールへ向かった。当初は、サイパン、グアム島が目的地であったが、米軍が3月に大規模空襲をかけてきたため、急遽パラオに変更となったものの同島にも大規模空襲があり、このため同部隊は父島でしばらく滞留することになった。その後、パラオ上陸を意図して出港、当時としては奇跡的に無傷でコロールに入港したのである。

世界遺産ロックアイランドの島々

■パラオ諸島が日本の委任統治領に

 

 パラオ諸島は北緯2度~7度に位置する赤道直下の島々である。1800年当時世界の海を制覇していたスペインがこの地の領有権を宣言したが、1898年米西戦争で敗れ、その戦費調達のため財政難からドイツにこの領有権を売却してドイツ領となった。その後1918年までドイツ領であったが、1914年に始まった第一次世界大戦で日英同盟の誼から英国・フランス側で参戦した日本が、中国大陸山東半島青島と並んでアジア太平洋地域の主要ドイツ植民地として占領を意図したのがこのパラオ諸島であった。戦後、ヴェルサイユ条約締結後日本は国際連盟からパラオを含むミクロネシア諸島を「委任統治領」として支配下に組み込まれたのである。

 

 パラオ諸島は西カロリン諸島の南端の600以上の島々で構成されているもので、総面積が東京都と同じ位でこの内のコロール島コロールに日本は統治政治機関「南洋支庁」を置いて、委任統治下の中心地となって栄えた。最盛期には2万人を超える日本人が定住していたといわれ、現在でも「南洋支庁庁舎」は裁判所として使われている。また、島内各地に日本家屋が多数残存している。

アンガウル島を上空から

 このコロールから南にスピードボートで約1時間行くとペリリュー島(面積・南北約9キロ×東西約3キロ)で、さらに40分行くとアンガウル島(面積・南北約4キロ×東西約3.5キロ)となる。この航海途中に、世界3大ダイビングスポットで世界遺産「ロックアイランド&南ラグーン」がある。ところでこの両島は、ドイツ統治時代から「リン鉱石(主要肥料、海鳥の糞が凝固した)」の産地として注目され、ドイツ時代にはリン鉱石を運ぶためにパラオ本島からペリリュー島へ行く途中の外洋入り口部分に「ジャーマンキャネル」と呼ばれる運河部も構築され、多くの労働者が入植していた。両島とも、平坦な地形のため「滑走路建設」が容易で、早い時期から航空基地としての重要性が指摘されていた。

 

■太平洋戦争とペリリュー、アンガウル島攻防戦

アンガウル島からペリリュー島を望む

 194112月ハワイ真珠湾攻撃、マレー半島上陸作戦ではじまった太平洋戦争は、当初こそ日本側の快進撃で占領地が拡大していった。しかし、1942年のミッドウエイ海戦、ソロモン諸島ガダルカナル島攻防戦で敗れた日本は、各方面で反撃してくる米軍に圧倒されてくる。

 

 194311月にはギルバート諸島マキン、タラワ島が玉砕した。

 

 ところで、この時期までの島礁部を巡る日米両軍の戦法は、対照的であった。米軍は数日間かけて、猛烈な空襲と大型艦の艦砲射撃を執拗に繰り返し、上陸作戦が開始されても、日本軍砲座などが新たに発見されると直ちに上空直隷戦闘機から爆撃、沖合の艦砲射撃を指示する態勢であった。このため、米軍側には攻撃地域を碁盤目1000ヤード、100ヤード四方にメッシュ、色分けした地図が作成されていた。この地図の「コードNO」を使用して、正確な位置把握が出来ていた。

 

 一方、日本側は島内に縦横無尽で複雑な洞窟陣地を掘削して、坑内に立て籠(こも)り猛烈な空襲や艦砲射撃に耐えて、上陸軍を迎え撃つが、原則は水際攻撃、上陸地点迎撃が主眼のため、どうしても早い時期で大損害をこうむる事態となっていった。さらに、日本軍は米軍側上陸態勢が整う前、橋頭保(きょうとうほ)が構築前にと、即日「切り込み」「夜襲」をかける作戦を必須としていた。

 

 この日本側作戦は米軍側も十分承知で、上陸軍は陣地構築後周囲に鉄条網を設置、機関銃座も何重もおいて待ち構えていた。このため、上陸数日で日本側の損害が7~8割と壊滅状態となっていった。

 

 マキン、タラワの玉砕、続くサイパン、テニアンの敗戦で日本側もこれまでの戦法への反省から、以後の作戦方法を大きく変更した。つまり、持久戦法へ変え、無駄な切り込み作戦をとらず、長期的な持久戦に米軍を巻き込むことを主眼とする戦法である。この新戦法が初めて採用されたのが、ペリリュー、アンガウル島の戦闘であった。

ペリリュー島からアンガウル島を望む

 

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山岸良二やまぎしりょうじ

1951年東京生。慶應義塾大学大学院修了。専門は日本考古学。東邦大学付属中高校で44年間教鞭。退職後昭和女子大学、放送大学で教壇に立つ。日本最大の考古学会である日本考古学協会理事歴任。「世界一受けたい授業」日本テレビ、「ダークサイドミステリー」NHK、2021年BSフジ「日本史の新常識」、2022年フジ「何だコレ!ミステリー」などテレビ出演多数、。毎日新聞千葉版で「習志野原今昔物語」全11回連載。著書に『考古学のわかる本』『関東の方形周溝墓』(同成社)、『古代史の謎はどこまで解けたのか』(PHP新書)、『いっきに学び直す日本史』(東洋経済)、『秋山好古と習志野騎兵旅団』(雄山閣)など多数。2025文化財保護貢献で「旭日単光章」叙勲。

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