満洲に移民した男たちのために送り出された「大陸の花嫁」とは? 花嫁100万人を目指した国家プロジェクト
昭和7年(1932)、日本は世界の非難をよそに、満洲国の建国を宣言する。そして、満洲の開拓のために多くの若者が入植した。そこで問題になったのが、移民青年の「お嫁さん問題」である。入植先の満洲で開拓団の若い男たちが生活に不満をもち、事件を起こす者まで出てきたことが関東軍を焦らせた。つまり、「男たちに女性をあてがって家庭をもたせれば落ち着くだろう」「入植先での幸福な家庭生活は、この政策の成功を象徴するものになる」という目論見があったわけである。
翌昭和8年(1933)には早速“花嫁招致”が始まり、昭和9年(1934)に花嫁として送り出された女性が初めて入植した。
この機運をますます高めることになったのが、昭和11年(1936)8月に拓務省が作成した「二十カ年百万戸送出計画」である。これによって満洲への入植は正式に国策となり、般開拓民の送出も進む。そして、いっそう「花嫁」の需要が高まったのである。
この頃から拓務省が花嫁送出に本格的に乗り出し、農林省や文部省、各都府県と連携した「花嫁養成」を推し進めていくことになる。送り出すだけでなく、花嫁候補の女性たちに満洲国建国の意義や現地の気候、風土、文化などを教育するのである。昭和14年(1939)には、「花嫁百万人大陸送出計画」まで策定された。国としては、満洲で日本人同士が結婚し、純潔の二世たちが誕生して人口を増やしていくことを期待したのである。
とはいえ、満洲への移住がすぐに世の女性たちに受け入れられていたかというと、そうでもない。だからこそ、新聞や婦人雑誌が盛んに喧伝した。それをよく表している一例として、昭和18年(1943)に刊行された『結婚の前進』という書籍から抜粋する。
「大陸に嫁ぐ一人の女性が得られれば、大陸の建設は、その分だけ成功に近くなるのです。開拓者であり先駆者であり推進員である大陸の花嫁、そこに自分に位地幸福を見出されることを、私は若い方々に願うのです(中略)大東亜を建設する日本がいま要望しているのは、夫と並んで大地に立つ花嫁となることなのです」
国は女性たちに対して、健気に、そして献身的に夫を支え、子を多く産み育て、日々農作業にも精を出す理想的な「働き者の良妻賢母」を求めていた。しかし、とくに都市部の女性やその家族は、縁故でもない限り遠く離れた土地に嫁ぐことに決して前向きではなかった。とくに本土空襲が本格化する前は、「わざわざ戦地に近いところにいかなくても…」「遠いところに嫁がせるのが心配」という親は多かったようだ。
一方で「お国のために」という強い意思を持った女性や、地方で貧しい暮らしを強いられていた女性、もしくは婦人雑誌をはじめメディアのPR活動によって新天地での将来に夢を見た女性らは、自ら志願して満洲に渡っていったのである。そして、様々な事情を抱えた「大陸の花嫁」たちを待ち受けていたのは、慣れない土地での数多くの苦難だった。

「大陸の花嫁」候補者の身体検査
『同盟通信社写真ニュース』1939年6月より