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地獄に落とされた紫式部を小野篁が救った!? 「観音菩薩の化身」と閻魔大王にウソをつき……

日本史あやしい話

          

■奇妙な二人の機縁を信じたい

 

  ちなみに、ひと言付け加えておきたいが、史実として紫式部と小野篁が面識がったということはあり得ないことである。小野篁が亡くなったのは853年のこと。一方、紫式部はその1世紀以上も後の生まれである。当然のことながら、二人が出会うことなどあり得ないのだ。

 

 ところが不思議なことに、この二人の墓は、実は隣同士に、仲良く並んでいる。場所は、京都市北区の堀川北大路交差点近くの一角。ほんの数十坪とはいえ、墓地に葬られているのは二人だけである。本来面識もなかったはずの二人、その墓がなぜ隣り合っているのか、何とも奇妙としか言いようがないのだ。

 

 ちなみにこの地に紫式部の墓があったというのは、室町時代に記された『河海抄』なる『源氏物語』の注釈書に「雲林院の塔頭・白毫院の南」と記されているから、およその位置(実際は南東)はこの辺りで間違いなさそうだ。

 それに対して、なぜ小野篁の墓がここに葬られているのかはわからない。彼にとってこの地は、縁もゆかりもなかったはずだからだ。小野篁が冥土と行き来していたとされるのは、鳥辺野にある六道珍皇寺であるが、そこともずいぶん離れているから、接点を見いだすことは難しいのだ。

 

 となれば、考えられるのは一つ。後世の人々が紫式部を地獄から救い出してくれた小野篁に敬意を表して、紫式部の隣に彼の墓を新調したのではないかということである。もちろん、これは単なる推測に過ぎず、真偽のほどはわからない。そう思うしかすべがないのだ。

 

 ともあれ、いつの頃から二人仲良く墓が並ぶようになったのかはわからないが、仮に二人にまつわる逸話が作り話だったとしても、この奇妙な二人の機縁だけは、本当にあったものと信じたいのだ。

紫式部の墓。奥に見えるのが小野篁の墓だ。

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過去記事

藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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