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ボクらが教科書で習った最古の貨幣「和同開珎」が“最古”ではなくなっている⁉ では最古の貨幣はいったいどれ?

ここが変わった!日本史の教科書#02


近年、古代史に関する新発見や発掘調査による新たな見解が、度々世間を賑わせている。そして、日本史の教科書において、この数十年で最も大きく歴史に対する認識・解釈の違いが発生したのが古代といっても過言ではない。最新の研究・調査結果によって大幅にアップデートされた古代史をみていこう。


 

和同開珎
708年から日本で鋳造・発行されたと推定される貨幣。直系は24mm前後、約7mm四方の穴が開いており、当の開元通寳を模したとされる。画像は崇福寺跡(滋賀県)から出土したもの。東京国立博物館蔵/ColBase

 

■最古の貨幣はどれ? 「富本銭」と「皇朝十二銭」

 

 律令国家の基本である中央集権政策のひとつとしての統一的な貨幣の発行が日本で始められたのは、かつては708年の「和同開珎」(わどうかいちん)によってであると考えられていた。和同開珎は、唐の開元通宝(かいげんつうほう)をモデルとして発行されたもので、山背国や周防国など、各地の鋳銭司において鋳造された。

 

 和同開珎は、流通貨幣として発行されたが、果たしてどれくらいの地域で流通したかについては不明な点も多い。というのは、和同開珎が出された3年後の711年に蓄銭叙位令が出されているからである。この法令は、銭貨をためるとその量に応じて位階を授けるというものであった。

 

 たとえば、従6位以下は10貫、初位以下は5貫の銭をそれぞれ蓄えて、政府に納入すれば、位を1階進めるという内容であり、銭の流通を図るための法令であった。しかし、この法令がどれくらいの効力があったかは不明とされている。

 

 このように、日本ではじめての流通貨幣は和同開珎であるということは広く教科書などにも記されてきた。ところが、それと同時に『日本書紀』の天武天皇12年(683)4月15日条には、今後は銅銭を用い、銀銭を用いてはならぬ、という詔がでており、この詔の3日後の18日条には、銀を用いることはやめないでも良い、という詔がだされている。この天武朝の詔をどのようにとらえるかが問題であったが、それでも長らく日本初の貨幣は和同開珎であるとされてきた。

 

 ところが、1997年から本格的な発掘が始まった総合工房跡の飛鳥池遺跡から大量の「富本」という銘をもつ富本銭が出土した。富本銭は、これ以前にも平城京跡や藤原京跡などから出土していたものの、この飛鳥池遺跡が天武・持統朝期の7世紀後半から8世紀にかけての遺跡であることなどから、『日本書紀』の記述とも合うされ、日本最古の鋳造貨幣といわれるようになった。

 

監修・文/瀧音能之

『歴史人』2025年7月号『ここが変わった!日本史の教科書』より

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