戦後の国鉄三大ミステリーのひとつ「下山事件」の真相は… 『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』【昭和の映画史】
■下山事件の闇に迫る主人公と深まる謎
今回取り上げた映画『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』は昭和56年(1981年)に、他殺説を強く主張した朝日新聞記者・矢田喜美男の、同名の著作を土台にして制作された。あえて白黒フィルムにして、戦後の雰囲気を出している。
物語は、矢田をモデルにした主人公の矢代記者が7月5日、シベリア抑留者の帰還を求める集会に顔を出すところから始まる。昭和24年(1949年)とはまだそういう時代だったのだ。
そこに、下山国鉄総裁が行方不明になったという知らせが入る。下山は朝、公用車で自宅を出た後、日本橋三越に立ち寄ったまま運転手の元に戻らず消息を絶った。そして翌6日の昼過ぎ、礫死体となって発見されたのだ。
捜査は難航し、警視庁捜査一課は自殺説、二課と東京地検特捜部は他殺説に傾いていく。東大は、生活反応がないことをもって他殺説を主張する。矢代は同僚と、現場付近の宿屋にいたという目撃証言を追って女将に会うが、信憑性は薄かった。
同僚たちと議論する中で矢代は、目撃されたのは替え玉かもしれないと推測する。誰かが、労働組合に罪を被せようとしているのではないか。「だとすれば、これは稀に見る計画的知能犯罪かもしれない」と考えた。
捜査が進まない中で次に三鷹事件が起き、世論は一連の事件を組合によるものと受け止める。世論を味方につけられなかった組合運動は動揺し、GHQと政府は9万5000人の解雇に成功した。さらに松川事件が起きて、官房長官は記者会見で先に起きた2つの事件と思想的に同根であると断定し、多くの関係者が逮捕された。
やがて捜査本部は解散。朝鮮戦争が起きて東西冷戦が深刻化する中、吉田首相は昭和26年(1951年)にサンフランシスコ講和条約および旧日米安全保障条約に調印して、日本は独立を回復した。翌年の5月1日には血のメーデー事件が起きている。戦後民主主義は早くも曲がり角に来ていた。
主演は仲代達矢、監督は社会派の熊井啓、制作は俳優座の映画部門だった俳優座映画放送である。俳優座は民藝や文学座と並び、戦後日本の演劇史における中心的存在だった。昭和19年(1944年)9月、千田是也が代表となって10人で設立した。
千田是也は明治37年(1904年)の生まれ。関東大震災後に、新劇の父・小山内薫が創設した築地小劇場の一期生となる。昭和2年(1927年)にはベルリンに渡り、現地の女性と結婚して帰国した。小林多喜二のデスマスクを作ったことでも有名だ。
しかし、戦後の演劇界をリードした俳優座などの新劇も、60年代以降のアングラ劇、80年代の第三世代などの台頭によって古手扱いになっていく。今も根強い人気があるとはいえ、ファン層の高齢化で集客は厳しくなっている。
本年4月末日、
翻訳劇を含めて多くの名舞台を生んだ俳優座劇場が、

イメージ/写真AC
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