断絶と孤立の果てに⋯30人を殺害した青年が、人生の最期に書き残した犯行の動機とは?
世間を騒がせた事件・事故の歴史
前編では、「無敵の人」と呼ばれる人物像の原型として、1938年に起きた津山事件の背景について検証した。若くして両親を亡くし、病気により社会との接点を断たれ、村で孤立した都井睦雄は、やがて武器を集め、集落全体を襲撃するという計画に至る。なぜ彼はそこまでの破壊に向かったのか。襲撃はどのように行われ、誰が殺され、誰が見逃されたのか──。後編では、事件当夜の詳細と、犯人のその後をたどる。
<前編:30人を殺した昭和の“無敵の人”──史上最悪の大量殺人事件「津山事件」とは? から続く>
*文中敬称略
■5月20日の行動
都井睦雄(といむつお)は、病気や偏見により孤立を深め、集落の人々を皆殺しにしようと決意。銃や刃物を集めるなど周到に準備を重ね、計画を実行に移す。
1938年5月20日、都井は自宅で一日を過ごしていた。この日、複数の遺書を書き終えたとされており、宛名には姉や、かつて関係のあった女性の名があった。内容には「この世で強く生きてください」「今度は幸福に生まれたい」などの文言が含まれていた。
夕刻、都井は電柱に登り、送電線の一部を切断した。当時の地方では短時間の停電は珍しくなかったため、住民は特に不審には思わなかった。23戸の家々は、電気のない真っ暗で静かな夜を迎えることとなった。
■5月21日未明の襲撃
1938年5月21日午前1時40分ごろ、都井睦雄は自宅で就寝中の継祖母(当時75歳)の首に斧を振り下ろした。継祖母とは血の繋がりはないが、都井にとって最も長く生活を共にした家族だった。
その後、都井は異様な装備で家を出た。詰め襟の学生服に身を包み、足元には地下足袋を履き、脛にはゲートル(脛を保護し、ズボンの裾を抑えるために巻く布製または革製のカバー)を巻いた。頭には布を巻き、両側のこめかみに小型の懐中電灯を固定。そして、銃、日本刀、匕首を携えた。
最初に向かったのは自宅の北西にあるA家だった。以降、都井はB家、C家、D家……と、あらかじめ定められていた順路に従って計11軒の家を次々と襲撃していく。家屋はいずれも施錠されておらず、就寝中の住民が多かったため、都井は音を立てずに侵入し、銃撃や斬撃によって次々に殺害していった。
標的の中には妊娠中の女性や子ども、高齢者も含まれていた。5歳の子ども、妊娠6カ月の女性、高齢の母親らが被害に遭っており、襲撃に年齢や性別の区別はなかった。就寝中の住民たちは、突然の銃声や刃物の影に直面し、逃げる間もなく命を奪われた。襲撃はおよそ1時間半にわたって続き、即死者は28人。重傷を負って後に死亡した者が2人おり、犠牲者は合計30名となった。11軒のうち3軒が一家全滅、4軒の家は生存者が1人だけだった。
都井は、家の構造や住人の寝ている位置を事前に把握していた可能性があるとされており、その行動は短時間かつ計画的であったことは、多くの証言からも裏付けられている。襲撃を終えた都井は、午前3時ごろには集落を離れたとみられている。
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