30人を殺した昭和の“無敵の人”──史上最悪の大量殺人事件「津山事件」とは?
世間を騒がせた事件・事故の歴史
秋葉原通り魔事件、川崎市登戸通り魔事件、京都アニメーション放火事件、京王線刺傷事件──2000年代以降、社会から孤立した個人が突如として重大な暴力を引き起こす事件が相次いでいる。背景には、孤独、困窮、失業、排除など、いずれも、日常のなかで見えにくい“静かな断絶”が潜んでいる。こうした犯行に走る人物は今日、インターネットでは「無敵の人」とも呼ばれる。「無敵の人」とは、社会から切り離され、失うものがないと感じる人々が、破滅的な行動に走る現象を指す。2025年5月7日夜に発生した、東京メトロ南北線・東大前駅での傷害事件も、同様の文脈で捉えられている。だが、こうした現象は決して現代に始まったものではない。「津山事件」──今から85年前、現在の岡山県津山市に属する山あいの村で、都井睦雄という若者が30人の命を奪った。本稿の前編では、犯人がなぜ、村を終わらせようとしたのかをたどってみよう。
<前編/後編の前編>
*文中敬称略
■犯人・都井睦雄の来歴
都井睦雄(といむつお)は1917年、岡山県苫田郡加茂村倉見(現:津山市加茂町倉見)の農家に生まれたが、3歳までに肺結核により祖父・父・母を次々に失っている。幼い都井は、祖父の後妻である継祖母の手で育てられた。当時、肺結核は家族全体に広がる病として忌避される風潮が強く、周囲からの偏見も生んでいた。都井の家もまた、そうした視線のなかにあったという。
学校では成績も優秀で、真面目な性格だったといわれる都井だったが、卒業後に肋膜炎を患い、医師から農作業を禁じられる。その後、療養を続けながら実業補習学校に進学したが、ほどなく通わなくなり、次第に家にこもりがちになっていった。 病気や村の偏見による孤立が、都井を「無敵の人」にしていった。
■村との関係と孤立
1937年、都井は20歳で徴兵検査を受けた。結核の既往歴が影響し、判定は平時の兵役には不適格とされる「丙種」だった。この頃、都井と関係のあった複数の女性との交際は相次いで断たれた。丙種合格であったことや病歴を理由に、女性本人やその家族が関係継続を拒んだとする証言も残されている。また、女性に限らず、村の若者たちとは徐々に距離を取るようになっていった。
また、家督相続の問題もネガティブな要素となっていた。 祖父と父が相次いで死亡したとき都井はまだ幼く、親族内の別の人物が宗家を継いだ。 つまり、都井は本家からは外れる形となった。 一部の田畑を相続するが、それは住んでいる集落から離れた土地だった。このような事情に加え、体調の問題もあり、将来の見通しが立ちにくい環境にあったのだ。恋愛もままならず、差別や偏見に苦しみ、悶々として日々を送る中で、都井はある歪んだ決意を固めた。
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