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断絶と孤立の果てに⋯30人を殺害した青年が、人生の最期に書き残した犯行の動機とは?

世間を騒がせた事件・事故の歴史

 

■誰を殺し、誰を見逃したのか

 

 都井睦雄による襲撃は、結果的に多数の死者を出したが、その対象はすべて無作為だったわけではない。実際には、被害に遭った者と、見逃された者の間には一定の傾向があったとされる。C家では、住人の高齢女性が命乞いをしたところ、都井は「もともと恨みはなかったが、Bの家から嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と述べたとされる。この発言からは、家同士のつながりが襲撃の基準になっていた可能性がある。D家では、高齢の男性が「悪口を言わなかった」という理由で殺害されなかったとも言われる。また、別の家でも涙ながらに命乞いした住人を見逃している。

 

 一方、他人の家に逃げ込んだ人物がいたことで、かえってその家が標的となった例もある。E家の四女がF家に避難した際、F家も襲撃され、そこの住人に死傷者が出た。村を離れていた者は被害を免れている。また、複数の子どもがいた家で、年齢に関係なく生存していた例もあり、選別の基準は一様ではなかった。これらの判断が、都井の記憶や個人的な感情に基づくものであることは、後の証言からも明らかになっている。

 

遺書と自殺

 

 襲撃を終えた後、午前3時頃までに村を離れたとされる都井睦雄が向かったのは、東方約3.5キロに位置する荒坂峠の山頂であった。途中の民家に立ち寄り、紙と鉛筆を求めた。対応した家人は驚いたが、都井を知っていた子どもを通じて筆記具を手渡したとされる。その後、山中で遺書の一部を記し、自ら命を絶った。遺体は翌朝、山狩りを行っていた警察関係者によって発見された。胸に銃口を向けて引き金を引き、即死していた。

 

 残された遺書は複数あり、一部は姉や過去に関係のあった女性に宛てたもので、内容は別れを前提としたものだった。宛名のない長文の遺書もあり、便箋18枚にわたって書かれていた。そこには、犯行の動機や、村に対する不満、孤立感が断片的に記されている。

 

 特に、山中で発見されたとされる一通には、以下のような内容が記されていた。

 

「祖母は殺してはいけないのだけれど、不憫を考えてついああした」

「病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた」

「親族が少なく、愛というものの僕の身にとって少ないことにも泣いた」

「今度は強い強い人に生まれてこよう」「今度は幸福に生まれてこよう」

 

 また、その日に決行を決めたのは、以前、関係のあった女性が村に帰ってきたからだという旨や、村内の男性に対する批判的な言葉も含まれていた。都井がどのような経緯でそこを最期の場所に選んだかは

は明確ではない。ただ、その行動の一連を記録し、死に備えた準備を整えていたことは確かである。

 

 都井睦雄のような犯罪者を「無敵の人」と呼び、矮小化するのはたやすい。また、その犯行は決して許されるべきものではない。だが、

この事件が浮かび上がらせる、時代や場所を問わず、人間社会が繰り返す断絶と、そこに生まれる孤立から目を背けるべきではないだろう。

 

無縁仏(イメージ)/写真AC

 

 

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ミゾロギ・ダイスケ 

昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。スポーツ誌編集者を経て独立。出版物、Web媒体の企画、編集、原稿執筆を行う。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

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