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縄文人はピーク時には「全国で24万人」もいた⁉ ─縄文時代に戦争がなかった?あった?─

縄文時代の謎109 #05

 

■縄文時代の人口が影響し集団間の争いが少なかった

 

復元住居

 

 これまでにも縄文時代の人口を推計する研究がいくつか提示されてきたが、その中でも最も引用されるのは小山修三による、遺跡数と住居数をもとにした研究である。これは、各住居址の面積を、一人あたりの必要面積である3㎡で除して居住人数を推定し、それを累積して各時期・各地域の人口を算出したものである。

 

 これによれば、人口が最も多かったと思われる縄文時代中期の場合、北海道を除いた全国で23万6500人程度であったと推定されている。また、早期の全人口数が2万人程度であったものが、前期には10万人を超え、中期には23万6500人へと、この時期に人口数が急激に増加したとも想定されている。

 

 また、人口数の東西差も非常に大きく、たとえば中期の東日本における推定人口数はおよそ23万であり、西日本における人口数1万人よりもおよそ23倍も多く、そのような東多西少の状況は、縄文時代の早期以降変わらない。このような人口数の東西地域格差は各地域における生業のあり方、精神文化のあり方、社会のあり方に大きな影響を及ぼしていたと考えられる。

 

 近年、縄文時代には戦争や闘争がなかったという言説が、多く見られる。戦争を、国家間における軍隊同士が戦うものと定義するならば、縄文時代には軍隊もなければ国家もないので、質問そのものが意味をなさないことになる。しかしながら、集団間における激しい争いであれば、東日本の中期以降のように人口が集中し定住性の強い地域には、そのような争いはあった可能性が出てくる。

 

 たとえば、北海道南部や東北地方北部における後晩期の遺跡から出土した人骨に受傷痕跡が観察できる事例は意外に多く、遺跡によっては出土人骨の30%近くに受傷痕跡が観察されることもある。北米北西海岸部に住む狩猟採集民であるトリンギット・ハイダ・ツィムシャンは、奴隷獲得のためにしばしば戦闘行為を起こすことで有名であるが、そのような民族の場合、墓から出土した人骨に殺傷痕跡が観察できた割合は30%ほどであったという報告もあり、これと先の縄文人の事例を比較するのであれば、縄文時代に暴力的争いがあった可能性はかなり高いとみる必要がある。

 

 一方、縄文時代に戦争がなかったという説もある。これは、攻撃によって受傷した人骨の数が少ないという点から指摘されているものだが、分析に使用された人骨資料を見る限り、社会的な複雑化がさほど進んでいなかったと想定される地域の資料が多く、これをそのまま受け入れることはできない。縄文文化は時期や地域によって非常に多様であったことは、本稿においても繰り返し述べているが、もし縄文時代における暴力を伴う闘争の有無を議論するのであれば、社会的複雑化が進展していたと考えられる地域の資料を用いるべきであろう。

 

 また、縄文時代全体の人口数からみれば、現在までに出土した人骨の数は、おそらく本来の1%にも満たない微々たるものであろうが、そのなかに殴打による鼻骨の骨折や、石斧による一撃で頭蓋に穴があいているといった受傷人骨が一定数存在することを考えると、縄文時代においても集団間や個人間における衝突と暴力はあったと考えざるをえない。

 

監修・文/山田康弘

『歴史人』2025年5月号『縄文時代の謎109』より

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