15代将軍・足利義昭が「黒幕」だった!? 「本能寺の変」の“すごい真相” 糸を引いていたのは誰なのか? 秀吉、朝廷、毛利、長宗我部…
歴史人
信長が暗殺された「本能寺の変」の真相については、謀反の動機をめぐりさまざまな説が唱えられてきた。70年代からは「光秀を動かした黒幕がいた」とする「黒幕説」も盛り上がり、秀吉、家康、長宗我部元親、毛利輝元などなど、周辺人物の関与説が登場。ここでは、その一部を紹介するとともに、黒幕説の「課題」について見ていきたい。
■黒幕・関与説① 足利義昭
:信長に追放された恨みを晴らす
光秀の単独犯行ではなく、将軍・足利義昭が黒幕だった、あるいは光秀の挙兵に関与(援護)していたという説。信長によって京都から追放され、毛利氏を頼って備後国の鞆(とも)に身を寄せていた義昭は、最も信長打倒(殺害)の動機がある人物の1人であるという事実や、かつて信長包囲網を築いたフィクサーとしての実力から支持されている説である。
■黒幕・関与説② 朝廷説
:朝廷の権威のため光秀を動かす
朝廷・天皇家の権威を凌駕する存在となろうとする信長に対して危機感を抱いた朝廷が、信長殺害を図って光秀を動かしたという説。当時、信長が正親町天皇に退位を迫り、天皇がこれを拒否していたという事実を根拠とする。武家政権と朝廷が反目しあう存在であり、信長が天皇を超越する存在を志向していたということを前提としている。
■黒幕・関与説③ 羽柴秀吉説
:最大の利益を得た秀吉の魂胆だった
本能寺の変によって、結果的に最大の利益を得たのが秀吉であることから導き出された説。中国大返しがあまりにも鮮やかに成功したのは、事前に信長殺害を知っていたからではないか、という疑いも後押しする。秀吉が信長に中国地方への出陣を要請したのも、光秀のために謀反の「お膳立て」をしたのだとする解釈も含まれる。
■黒幕・関与説④ 徳川家康説
:妻子を失い積年の恨みを晴らす
かつて正室の築山殿、嫡男信康を信長の命によって死に追いやった家康が、積年の恨みを晴らすために光秀を使って信長を討ったという説。強敵武田氏を滅ぼしたことで、信長にとって「用済み」になってしまった家康が、自分の身を守るため「家康殺害」を信長から命じられた光秀と手を組んで本能寺の変を起こしたというバリエーションもある。
■黒幕・関与説⑤ 長宗我部元親
:窮地に追い込まれ光秀を頼る
信長の四国政策の転換によって、所領を奪われるか、さもなくば信長によって討伐されるかという危機に陥った元親が、縁戚であり、かつて信長との間の取次だった光秀を頼って謀反を起こさせたという説。「石谷文書」の発見で注目を集めるようになった「信長の四国政策転換が光秀を追い込んだ」という説と表裏の関係となっている。
■黒幕・関与説⑥ 毛利輝元
:敵対する信長を討ち取るために
信長と敵対関係にあり、秀吉によって備中高松城を攻撃されていた輝元が、ひそかに光秀と通じて信長殺害を実行させたという説。毛利氏の保護下にあった足利義昭が光秀との仲介役を果たしたという説や、じつは秀吉も毛利氏と通じていて、高松城の戦いでの和議は出来レースだったとする説など、いくつかの説と結びついて語られる。
■黒幕・関与説の課題

足利義昭(国文学研究資料館蔵)
筆者はかつて編集をしていた歴史雑誌で、歴史を得意とする論者に「●●が黒幕だったという説が成立するかどうか、その説の立場に立って検討する原稿を執筆してほしい」と依頼したことがある。様々な「黒幕説」の可能性を検討することで、本能寺の変の真相が見えてくるのではないかという、いわば思考実験のような試みだった。
「黒幕・関与説」は、まさにそうした思考実験として、本能寺の変研究に寄与したと言えるだろう。しかし、誰かが何らかの「関与」をした可能性は否定できないが、裏で糸を引いていた圧倒的な黒幕の存在は、現在の研究水準では想定しがたい。
「足利義昭黒幕説」は、数ある黒幕説のなかで数少ない、プロの研究者も検討せざるを得ない説のひとつだった。事件当時の義昭は、備後の鞆で毛利氏の庇護下にあった。毛利氏と光秀との間を結ぶルートを証明することができれば、その可能性は広がるかもしれない。
監修・文/安田清人
一部を抜粋・再編集