薬草振興に大きな影響を与えた8代将軍徳川吉宗〜江戸時代には家庭薬の販売が盛んになる〜
エピソードで紐解く薬草の歴史 【第3回】
「奈良と薬草」その歴史は1400年前に始まった。そしていま、先進医療の現場や世界トレンドであるウェルネスの世界で「薬草」がもっとも熱く、もっとも注目をあびている。なぜ「薬草」なのか。エピソードとともにその理由をひもといていこう。江戸時代には、国内の薬草振興に多大な影響を与えた享保年間の採薬使や、家庭薬の販売が盛んになった売薬の歴史について紹介する。
■江戸の国産薬草の振興に一役買った「採薬使」

8代将軍徳川吉宗。薬草を国産化するため、日本全国の薬草をさがすべく「採薬使」を派遣した。アフロ
享保の改革で有名な8代将軍の徳川吉宗は、国産薬草の探索と栽培を振興するため、全国に採薬使(さいやくし)を派遣した。これは、当時の幕府の財政は逼迫していたが、薬は欠かすことができなかったからである。なかでも薬用人参は、その調達は中国からの輸入に頼らざるを得ず、更なる財政悪化を招いたことから、国内における同一・類似薬草を求めたのである。

大変な貴重品だった高麗人参。いまでも高級品となると1本数十万円で取引されている。
採薬使は、医師である丹羽正伯(にわしょうはく)を筆頭として活動を行うが、なかでも植村左平次政勝は、この施策で活躍した本草家(薬草の栽培やその使用法に知識のある専門家)の一人である。植村左平次は、全国各地を調査するが、とくに大和国を中心に調査を行った1729年の「伊賀伊勢紀伊大和山城河内六カ国御用」が約150日間に渡る大調査として有名である。
また採薬使には通例、道先案内人を兼ねた薬草見習いを調査地から随行させることが命ぜられており、大和国の調査では宇陀郡松山町の森野藤助(もりのとうすけ)をはじめ畠山栄長、岡谷喜右衛門、井上孫左衛門、畠中藤左衛門が随行した。植村左平次は、その後も3度大和国を訪れるが、森野藤助はそのうち2回に同行するだけでなく、伊勢・美濃・近江の採薬業にも同行している。
■日本最古の私設薬草園「森野旧薬園」

「小石川植物園」と並ぶ日本最古の薬草園である森野旧薬園の外観。中の見学も可能(有料)で、多くの薬用植物が大切に育て受け継がれている。
森野藤助は、採薬使への貢献による功績を讃えられ、幕府から唐薬草木6種(甘草(かんぞう)、東京肉桂(とんきんにっけい)、烏臼木(うきゅうぼく/なんきんはぜ)、天台烏薬(てんだいうやく)、牡荊樹(ぼけいじゅ)、山茱萸(さんしゅゆ)を拝領し、自宅背後の畑に植えて大切に育てた。これが、森野旧薬園の始まりである。森野藤助は、これら6種のみでなく、自ら多くの薬草を採集し、同様に植えて育てたのである。森野藤助は、その後家督を譲り、薬園の一角に書斎兼薬草研究所として「桃岳庵(とうがくあん)」を建てて本草の研究に励み、『松山本草』を著している。
森野旧薬園は、日本最古の私設薬草園として現存しており、当初幕府から拝領した山茱萸が残るほか、今も多くの薬草類を大切に育て管理している。また、薬園は一般公開されていることから、その歴史を感じることができる名所の一つである。
■日本の家庭薬販売の本格化「売薬」

江戸時代末に薬問屋を商っていた住宅を改修した宇陀市歴史文化館「薬の館」。生薬の保管に使われた百味箪笥や薬の看板など貴重な資料が残る。(宇陀市提供)
江戸時代のはじめには、曲直瀬道三(まなせどうさん)の調薬が一世を風靡したとされているが、やがて現代の家庭薬の元になる薬の製造・販売が始まった。
1654年の『毛吹草』(けふきぐさ)には諸国の名物として、大和では西大寺の豊心丹が挙げられている。その後、売薬が本格的に展開するのは享保期以降で、『日本薬業史』にも京都、大坂、江戸のほか、山城、水戸、近江、美濃、大和などの各地の有名薬43種があげられている。
大和の名薬では、米田の三光丸(さんこうがん)(胃腸薬)と藤井の陀羅尼助(胃腸薬)をあげているが、三光丸と並んで中嶋の蘇命散(そめいさん)(婦人薬で、葛根湯の原型ともいわれている)も有名であった。この蘇命散は、元禄2年(1689)に創製したとされており、豊心丹や陀羅尼助を除けば、大和売薬の一般的な成立時期は、この江戸時代ではないかと思われる。ここから本格的な売薬がスタートしたのである。