1400年前に始まった「奈良と薬草」の歴史〜『日本書紀』に記された最初の女性天皇とのかかわりとは〜
エピソードで紐解く薬草の歴史 【第1回】
「奈良と薬草」その歴史は1400年前に始まった。そしていま、先進医療の現場や世界トレンドであるウェルネスの世界で「薬草」がもっとも熱く、もっとも注目をあびている。なぜ「薬草」なのか。エピソードとともにその理由をひもといていこう。奈良時代には宮廷行事として薬猟が行われ、修験道により陀羅尼助が伝承された。
■記録に残る最古の記述:薬猟(くすりがり)は日本最初の女性天皇が関係していた

薬猟が行われた「阿騎野」の地は、現在「かぎろひの丘」(万葉公園)付近と推定される。公園には、柿本人麻呂が詠んだ「東の野に炎の立つ見えてかえり見すれば月傾きぬ」の碑が立っている。
奈良のくすりに関する最初の記述として見られるのは、『日本書紀』における薬猟である。
西暦611年(推古19年)5月5日、大和菟田野(うたの/現在の宇陀市大宇陀阿騎野付近と推定される)の地で、薬猟が行われた。薬猟は、女性が薬草を摘み、男性が狩猟により鹿の角を得たとされている。そのため、薬草の「薬」と狩猟の「猟」の文字を掛け合わせて、「薬猟」という言葉が生まれた。
鹿の角は、鹿角(ろっかく)とよばれる生薬(しょうやく)で、滋養強壮作用が知られている。また、鹿の幼角(袋角)は、鹿茸(ろくじょう)とよばれる生薬で、鹿角と同様に強壮作用があり、現在でも強心薬で知られる六神丸(ろくしんがん)などの民間薬に配合されている。一方の薬草は、よもぎやしょうぶを摘んだのではないかとされている。よもぎは、葉は艾葉(がいよう)とよばれる生薬で、止血作用などがある。また、葉の裏に見られる綿毛を集めたものが、お灸の材料となるもぐさである。
このよもぎは、生薬としてだけではなく、長谷寺の参道などでよく見かける草餅の材料のように食品でも活用されている薬用植物である。
■役行者が創製したとされる胃腸薬「陀羅尼助」(だらにすけ)

役行者倚像。修験道の開祖とされ、本名は役小角(えんのおづの)とされる。奈良国立博物館蔵/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
役行者(えんのぎょうじゃ)をご存知だろうか。役行者は、修験道の開祖で奈良県御所市茅原の地で生まれたとされている(同地にある吉祥草寺[きっしょうそうじ]にその由縁が残っている)。陀羅尼助は、この役行者が創製した胃腸薬で、その原料は黄柏(おうばく)である。黄柏は、樹木であるキハダの外側の樹皮を除いた内皮で、採取時には鮮明な黄色を帯びている。陀羅尼助は、黄柏を煮詰めてできたエキスをそのまま板状に乾燥させたものであり、昔は竹の皮に包んで販売されていたが、現在はアルミパウチ袋で流通している。陀羅尼助と類似した製剤は、修験道を通じて全国に広まり、信州では「百草」(ひゃくそう),鳥取では「煉熊」(ねりくま)とよばれている。いずれも、御嶽山や大山といった修験道がみられる。

陀羅尼助(だらにすけ)」の主原料に使われる樹木のキハダ。木の皮が黄色いことがその名の由来である。
現在は、板状の陀羅尼助や黄柏以外の生薬とともに配合し、丸薬とした陀羅尼助丸が販売されている。陀羅尼助の名前の由来は、陀羅尼経を唱えながら薬を作ったことや、陀羅尼経があまりにも長いため、僧侶の眠気覚ましとして黄柏を舐めたことなどに由来するという。
陀羅尼助は、天川村洞川や吉野山で製造されているほか、昭和期までは當麻寺中之坊でも製造されており、今でもその当時使用されていた黄柏からエキスを抽出し煮詰める釜や抽出に必要となる水を汲んだ井戸が残されている。
■田道間守が探した非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)

垂仁天皇の墓と比定される宝来山古墳(垂仁天皇陵)。写真手前の小島は田道間守の墓といわれている。
黄柏の原料となるキハダはミカン科の植物であるが、同じミカン科の植物で歴史のある橘(たちばな)に関する事柄もご紹介したい。
そのむかし垂仁天皇(すいにんてんのう)は、不老不死の果物である非時香菓を手に入れるべく、田道間守(たじまもり)にこの果実を探すよう命じた。田道間守は、常世の国(とこよのくに:海の彼方にあるとされた異世界)に渡り、非時香菓を手に入れて帰国するが、時すでに遅く垂仁天皇は崩御されていた。嘆き悲しんだ田道間守は、垂仁天皇の御陵に非時香菓を供えたという。
この非時香菓が、橘の実である。現在、奈良尼ヶ辻にある垂仁天皇陵のお堀には、田道間守の墓が小島として寄り添っている。また、奈良県高市郡明日香村にある橘寺は、この田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来するといわれている。