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道長が厚い信頼を寄せた藤原斉信

紫式部と藤原道長をめぐる人々㉔


6月16日(日)放送の『光る君へ』第24回「忘れえぬ人」では、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)が藤原宣孝(ふじわらののぶたか/佐々木蔵之介)との結婚に前向きになっていく様子が描かれた。一方、都では、出家した中宮・藤原定子(ていし/さだこ/高畑充希)への思いを忘れられない一条天皇(塩野瑛久)が、思い切った行動に出るのだった。


■一条天皇が最初で最後のわがままを押し通す

『前賢故実』に描かれた藤原斉信(国立国会図書館蔵)。政治家としての手腕のみならず詩歌の才にも優れ、漢詩集や勅撰和歌集に漢詩や和歌が複数収められた。

 藤原宣孝に求婚されたまひろは、心が揺れていた。そんななか、懇意にしてきた周明(ヂョウミン/松下洸平)がひた隠しにする陰謀を見抜き、ふたりの師弟のような関係が終わりを告げようとしていた。

 

 一方、都では女院・藤原詮子(せんし/あきこ/吉田羊)が病に倒れる。詮子は藤原伊周(これちか)の生霊の存在をほのめかしていた。母を救うべく、一条天皇は大赦の詔(しょう/みことのり)を下し、花山院を襲った伊周と隆家(たかいえ/竜星涼)兄弟の都への召喚を命じた。天皇はふたりに対する重い処罰を後悔しており、その責任を転嫁するかのように藤原道長(みちなが/柄本佑)を叱責した。道長は平伏したまま、一条天皇の言葉を聞くことしかできない。

 

 こうして平癒した詮子のもとに一条天皇が見舞いに訪れた。その場で天皇は、中宮・藤原定子を内裏に呼び戻すことを女院に告げる。出家した中宮を内裏に戻すことは前例のないことで、公卿の反発を招くことは必至だった。寝耳に水の道長らの反対に一条天皇は耳を貸さず、その決意が揺らぐことはなかった。

 

 それから時を置かずして、天皇と中宮との再会が果たされた。藤原行成(ゆきなり/渡辺大知)の機転で内裏に戻すことはいったん免れたものの、道長の懸念した通り、宮中にはまたたく間に非難の声がうずまくようになる。それでも定子と自由に会えることになった一条天皇は逢瀬に夢中となり、次第に政務が疎かになっていった。

 

 一方、越前に居座る宋人は、公に交易が認められない限り帰国はせず、宋の品物は二度と日本に届かない、と朝廷に脅しをかける。下手に交渉をこじらせ武力で攻め込まれることのないよう、道長は越前の国守である藤原為時(ためとき/岸谷五朗)に、様子見をしながら時間を稼ぐよう指示する手紙を送ったのだった。

 

■高い評価の一方で「貪欲な謀略家」とこきおろす声も

 

 藤原斉信(ただのぶ)は、太政大臣・藤原為光(ためみつ)の二男として967(康保4)年に生まれた。母は左少将・藤原敦敏(あつとし)の娘。同じ母を持つ兄弟として、花山天皇に寵愛された女御・藤原忯子(しし/よしこ)などがいる。

 

 父の為光は藤原兼家(かねいえ)の同母弟で、つまり兼家の五男である藤原道長とは、いとこの間柄となる。

 

 984(永観2)年に侍従、986(寛和2)年に左少将、994(正暦5)年には一条天皇の蔵人頭に就任する。996(長徳2)年には参議に進んだ。

 

 頭脳明晰で優秀な政治家だったようで、藤原公任(きんとう)、藤原行成、源俊賢(みなもとのとしたか)とともに「一条朝の四納言」のひとりに数えられた。美しい相貌で、清少納言には「まるで物語に登場する麗しい貴公子のよう」(『枕草子』)と絶賛された。斉信と清少納言が恋仲だったとする説はさておき、ふたりが機知に富んだやり取りをする様子は、『枕草子』の随所に登場する。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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