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皇子を産みながら后になれなかった藤原詮子

紫式部と藤原道長をめぐる人々⑯


4月21日(日)放送の『光る君へ』第16回「華の影」では、揺るぎない地位を確立した藤原道隆(ふじわらのみちたか/井浦新)の様子が描かれた。弟の藤原道長(みちなが/柄本佑)が都に蔓延する疫病対策を何度提言しても道隆がまったく聞き入れないなか、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)が病に倒れた。


 

中関白家の栄華が絶頂を迎える

藤原兼家の邸宅があった東三条殿跡に立つ石碑(京都府京都市)。出家後に東三条院を名乗った藤原詮子の居住地でもある。1005(寛弘2)年に内裏が火災に遭ったため、一条天皇はこの邸を里内裏として用いている。

 石山詣の帰り道にちょっとした行き違いをきっかけに、まひろはさわ(野村麻純)との音信が途絶え、心を痛めていた。

 

 その頃、内裏の登華殿では、一条天皇(塩野瑛久)と、若い公卿らとの交流が盛んに行なわれていた。関白・藤原道隆を頂点とする中関白家と天皇家との親密さを広く知らしめるためのものだったが、参列した藤原公任(きんとう/町田啓太)は密かに不快の念を抱いていた。御前にもかかわらず、藤原伊周(これちか/三浦翔平)が普段着である直衣姿(のうしすがた)だったことに、中関白家の傲慢さが透けて見えたからだ。

 

 そんななか、都では疫病が猛威を振るい、死者が多数にのぼっていた。一条天皇や陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明(あべのはるあきら/せいめい/ユースケ・サンタマリア)は強い懸念を表明。藤原道長をはじめとする公卿らも一刻も早い対策を提言していたが、道隆は一向に耳を傾けようとしない。

 

 その頃、まひろは救護施設である悲田院(ひでんいん)で、感染者の看病の手助けをしていた。しかし、看病に駆け回るうちに、まひろ自身も高熱で倒れてしまう。

 

 そこへ偶然、視察に訪れていた道長が出くわした。道長は、再会を喜ぶ間もなく、まひろを抱きかかえて家まで連れ帰った。そして一晩中、語りかけながらまひろの看病を続けたのだった。

 

 翌朝、まひろの父・藤原為時(ためとき/岸谷五朗)に促され、やむなく道長は帰っていった。道長の懸命の看病により容態の安定したまひろは、どこからか聞こえてくる道長の呼びかけに応じ、静かに目を覚ました。

 

■弟・藤原道長の出世に大きく貢献した詮子

 

 藤原詮子(せんし/あきこ)は、太政大臣・藤原兼家(かねいえ)の次女として962(応和2)年に生まれた。母は藤原中正(なかまさ)の娘である時姫(ときひめ)。同じ母を持つ兄弟として、藤原道隆、道兼(みちかね)、道長、長女の超子(ちょうし)がいる。

 

 詮子は天皇の后候補として大切に育てられたという。ところが、円融(えんゆう)天皇が即位した969(安和2)年に兼家の兄である藤原兼通(かねみち)が権力を握ったことから、兼家の家族は不遇をかこつことになる。兼通と兼家の兄弟が政治的に敵対していたからだ。そのため、詮子の入内(じゅだい)は見送られた。

 

 兼通は977(貞元2)年に死去したものの、兼家は治部卿に左遷。関白職は藤原頼忠(よりただ)が継承した。翌年に詮子が入内に成功している。

 

 979(天元2)年に円融天皇の皇后である藤原媓子(こうし)が死去すると、宮中では、子を持たない円融天皇の後継への関心がにわかに高まった。同年の夏には比叡山延暦寺(滋賀県大津市)で皇子誕生を祈願する祈祷が行なわれたようである。

 

 そんななか、詮子は翌980(天元3)年に待望の男の子を出産。生まれた懐仁(やすひと)親王は、円融天皇にとって唯一の皇子となった。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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