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宇喜多秀家は「秀吉の秘蔵っ子でありながら関ヶ原の敗将として世を去った男」ではなく「84歳まで凛として生きた最後の武将」【イメチェン!シン・戦国武将像】

イメチェン!シン・戦国武将像【第8回 宇喜多秀家】


織田信長や豊臣秀吉の寵臣(ちょうしん)として知られる宇喜多秀家(うきたひでいえ)。豊臣五大老にまで上り詰めた秀家は関ヶ原の戦いして西軍につき、戦後は敗軍の武将として流刑となり、悲壮な最期を遂げた。というのが一般的なイメージだが、秀家は実は流刑地でも輝きをもって生きていたという。


流刑地・八丈島に立つ宇喜多秀家。

  宇喜多秀家ほど、その人生の前半と後半が変転した人物はいないだろう。秀吉は、多くの養子を得て、そのことごとくに自らの「秀」の文字と姓「豊臣(それ以前は羽柴)」を名乗らせ、特別の地位を与えた。その中でも秀家は、秀吉死後も存命し、変わらずに「豊臣」の名を冠することができたただ1人の存在となった。関ヶ原合戦では、西軍に属し戦い、敗将となった。合戦後は薩摩に落ち延びたが、結局家康によって八丈島に流刑となり、侘びしく寂しい余生を送った、というのがこれまでの秀家の人生であり、武将としての評価でもあった。

 

 だが、本当の秀家像はどうだったのであろうか。八丈島に流刑されてからの秀家は、その後50年以上をこの島で生きた。その間に、家康も没し、敵味方に分かれて関ヶ原で戦った同僚の武将たちもほとんどが死に絶えたが、1人秀家のみは天寿を全うするまで生きた。何度か、恩赦が出され、島から帰還することが可能になっても、秀家はその度に固持し続けた。最後まで、堂々と武将・(豊臣)宇喜多秀家として死ぬことを望んだのだった。その生き様を、侘びしいというか、見事というかの評価・判断は、後世の(現在を生きる)私たちに委ねられていた。そして今、改めて宇喜多秀家の生き方を「愚かしくも美しい」という評価が与えられるようになっている。

 

 秀家は、備前(岡山県東部)守護代・浦上氏の家臣・宇喜多直家(なおいえ)の子として生まれた。父・直家は浦上家から独立し、近隣を従えて戦国大名になったが、対抗者の暗殺・毒殺、大勢力への臣従と離反を繰り返し「稀代の梟雄(きょうゆう)」と呼ばれる存在である。

 

 最終的には、織田家の中国方面司令官・羽柴秀吉に従い隣国の毛利氏と相対する。その最中に直家は病死し、家督は10歳で嫡子・八郎が継いだ。後に秀吉は八郎を養子に迎え「秀家」とする。

 

 さらに秀家は、秀吉の仲介で前田利家(まえだとしいえ)の娘・豪姫を秀吉の養女として娶(めと)ることになる。秀家は、戦さにも長けていた。四国征伐・急襲征伐・小田原征伐では常に先陣に立って勇敢な武将ぶりを示した。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、秀吉に代わって遠征軍の総大将を務めた。若くして秀吉政権の五大老にも任命される。まさに「秀吉の秘蔵っ子」として誰からも認識された。

 

 だが秀吉が没し、家康による天下掌握の動きに石田三成(いしだみつなり)が反応し、関ヶ原合戦になる。秀家は前田利家が生きている間に「わが手勢で内府(家康)を討って見せましょう」とまで言うほどの一本気ぶりを見せている。そして敗戦。秀家は伊吹山中に隠れてから、薩摩(鹿児島県)に落ち延びた。結局、家康の知るところとなり、慶長8年(1603)八丈島への流刑処分を言い渡された。

 

 それから50年余を離島で生きた。その間には前田家からの仕送りや、福島正則からの酒の差し入れなどがあったという。家康が没した時には恩赦がったが、秀家はこれを拒否。その後も何度かの恩赦すべてを拒否して離島で生きた。負け組でありながら、凛として生き抜いた84年の秀家の生涯は今「戦国最後の武将」として改めて見直されている。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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