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独眼竜・伊達政宗として戦国の世に名を轟かせた猛将は実は「戦国一ビジネス上手な経営者」【イメチェン!シン・戦国武将像】

イメチェン!シン・戦国武将像【第3回 伊達政宗】


歴史上、知られている戦国武将像はイメージが固定されている。「あるゆる権威を否定した戦国の天才武将・織田信長」とか「独眼竜の異名を取った奥州の覇者・伊達政宗」など。しかし、最近の歴史研究などによって、武将のこうした1つのイメージが変わりつつある。これまでとは異なるイメージチェンジした新しい戦国武将像を追った。今回は猛将として東北を席巻した伊達政宗(だてまさむね)をピックアップ!


伊達政宗騎馬像

 18歳で初陣と家督継承を果たし、20代半ばで奥州を平定し、天下統一に向かった伊達政宗。そのイメージは、縦横に軍略を駆使し無鉄砲ともいえるほどの蛮勇を発揮した戦国武将らしい戦国武将であろう。しかし、戦国時代としては「遅れてきた天才武将」とされ、「天下」を目指すものの豊臣秀吉・徳川家康には遅れを取った。後には猛将が保守的な地方大名になった感があるが、実は違った。政宗は、戦国末期から江戸時代初期に掛けての、最高の経済政策の達人であったのだ。

 

 そのためもあってか、政宗の仙台藩は実は日本一の大藩であった。当時、禄高が最も多かったのは加賀・前田家102万石、次いで薩摩・島津家の73万石。これに比べ、政宗の伊達藩は62万石しかない。だが、こうした表高ではなく、公にされない裏高では100万石どころか200万石も優に超えるほどの実高を持っていたとされる。「240~50万石ほどはあったろう」という歴史家もいるほどである。

 

 当時から「地方の富、仙台の右に出るものはなし」と言われたのが、政宗の仙台藩であった。それは、政宗の経済政策が他藩とはまったく違ったからで、こうした経済政策がすべて政宗の頭から弾き出されたのである。その2本柱が①独自の新田開発システム②産米流通システムの開発、にあった。

伊達政宗が本拠とした仙台城の石垣跡

 徳川幕府の成立によって、世の中が安定してくると、ほとんどの藩が新田開発などには力を入れたが、仙台藩は他藩とは異なるシステムを採り入れた。従来の農村は荘園時代のまま「荘」や「郷」の行政単位を基礎としていたから、その後の発展による現実の村落と一致しなくなっていた。それを改めるのに政宗は、家臣たちに在地支配を許した。ある意味の「地方知行」制度である。在地支配を許された家臣たちは、藩の土地ではなく「自分の土地」という自覚を持ち、真剣に新田などを開発した。つまり、会社で働き給料をもらうサラリーマンではなく、小さくても個人企業の経営者のような感覚が家臣には生まれていた。これは徳川幕府の規制からははみ出したものだったが、政宗はその実力にモノを言わせて実行した。この独自性が実を結んだ。

 

 そして仙台藩は「買い米」という仕組みを作った。田植え段階から一定の見込み収穫量を伊達藩が買い上げておく仕組みで、収穫後は藩が開発したルート(北上・迫・江合の三川合流)によって内陸の米は河口の石巻に運ばれ、ここから江戸に回送されたのである。

 

 政宗は、このシステムにより常に仙台藩から2、30万石の産米を江戸に送り出した。これが江戸の米市場を大きく牛耳るほどになった。江戸の米の3分の2は仙台米であったという。これは、仙台藩独自のやり方だが、どこの藩でもできたことではなかった。政宗という政治力と実力があったからこその経済政策であった。だが現代では強い戦国武将ということだけではなく、こうした経済感覚まで持っていた伊達政宗という人物の多彩な面を知ることができる。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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