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就任以上に世間を驚かせた家康の将軍職「交代」

史記から読む徳川家康㊹

 世間では、成人さえすれば秀頼は天下人となるべき存在、と考えられていたらしい。政宗は、そうした風潮に異を唱え、必ずしもそうすべきではない、と家康に意見したものと見られる。

 

 同じ年の12月、家康は畿内の大名に二条城(京都府京都市)の造営費を課した(『徳川実紀付録』)。建築にあたり、建設予定地周辺の町家の立ち退きを始めさせている(『義演准后日記』)。

 

 年が明けて、翌1602(慶長7)年2月、徳川家家臣の井伊直政(いいなおまさ)が死去。関ヶ原の戦いで負った銃創が死因だったといわれる。同年51日には二条城の造営が始まった(『時慶卿記』『慶長見聞書』『平安通志』)。

 

 続いて同年61日、家康は伏見城(京都府京都市)の修築を諸大名に命じている(『当代記』『神君御年譜』)。

 

 その伏見城で家康の生母・於大(おだい)の方が同年828日に死去(『兼見卿記』)。遺体はまもなくして江戸に運ばれ、伝通院(東京都文京区)に葬られた。同年1018日には、関ヶ原の戦いで家康方に通じて勝利に貢献した小早川秀秋(こばやかわひであき)が病死している。

 

 翌1603(慶長8)年212日、家康は征夷大将軍に任じられた(『公卿補任』「日光東照宮文書」)。この頃、家康の将軍就任と同時に、なぜか秀頼が関白に任じられるとの噂が流れていたらしい。

 

 いずれにせよ、これを機に家康から秀頼に面会を求めることはなくなったという。また、年賀の挨拶に大坂城へ登城する大名が減り、代わりに江戸城を訪れる大名が激増した。家康は武家の棟梁である征夷大将軍となったのだから、武門にある者にとってはある意味、自然の流れといえる。すなわち、秀頼と家康の主従の立場は形式上、逆転した。

 

 同年728日、家康の孫娘である千姫(せんひめ)が秀頼と結婚する(『時慶卿記』『舜旧記』)。この結婚は秀吉の意向によるものだが、家康が将軍宣下を受けた直後ということもあり、豊臣恩顧の大名たちを無闇に刺激しないための配慮という側面もあったようだ。

 

 翌1604(慶長9)年717日、家康の三男である徳川秀忠に、子どもが生まれた。のちの徳川家光(いえみつ)で、家康はこの子を竹千代(たけちよ)と命名している。

 

 家康が将軍職を秀忠に譲ることを朝廷に奏請したのは、翌1605(慶長10)年47日のこと(『家忠日記増補』『武徳編年集成』)。同26日に、秀忠は将軍宣下の拝賀のため参内している(『台徳院殿御実紀』)。

 

 就任からわずか2年での交代は、武家の棟梁である将軍が徳川家による世襲であることを広く天下に示したものだった。

 

 豊臣家にとっては、関白職も、将軍職にも就くことが絶望的な事態ということになる。秀忠への将軍職交代は、家康が豊臣家に天下を返す意思がないことを鮮明にしたものであり、家康の将軍職就任よりも、むしろ交代の方が世間には驚きを持って受け止められたようだ。

 

 同年510日、家康は秀頼に、秀忠の将軍就任を祝いに上京するよう要請したが、淀殿の反対によって実現しなかった(『時慶卿記』『義演准后日記』)。

 

 この後、家康は駿府に退き、大御所(おおごしょ)を名乗ることとなる。秀忠の江戸と、家康の駿府で政を行なう体制は「二元政治」と呼ばれたが、政治の実権は依然として家康が握っている。

 

 なお、徳川四天王と謳われた榊原康政が館林城(群馬県館林市)で死去したのは1606(慶長11)年のこと(『寛政重修諸家譜』)。4年後には本多忠勝が死去し、三河時代から家康を支えてきた重臣たちはことごとく亡くなった。

 

 本多忠勝の辞世の句として次のような言葉が残されている。

 

「死にともな ああ死にともな 死にともな 深き御恩の 君を思へば」

(深い恩のある主君に報いることができなくなると思うと、死にたくない)

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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