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秀吉の死と同時期に家康も暗殺されかけていた?

史記から読む徳川家康㊴


10月15日(日)放送の『どうする家康』第39回「太閤、くたばる」では、天下人・豊臣秀吉(とよとみひでよし/ムロツヨシ)の最期が描かれた。衰えゆく秀吉の姿を目の当たりにするなか、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)は、老臣・酒井忠次(さかいただつぐ/大森南朋)から天下取りの後押しをされるのだった。


 

波乱の幕開けを予感させる秀吉の死

京都府京都市の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)にある豊臣秀吉の廟所。秀吉の死因については明らかになっていない。晩年はしきりに咳をしていたということから結核説や、胃痛に悩まされ、最期はほとんど食事が喉を通らない状態だったことから胃がんや消化器系がんの説までさまざまで、異説として毒殺説や仏の祟り説などが取り沙汰されることもある。

 側室・茶々(ちゃちゃ/北川景子)との間に第二子の拾(ひろい/のちの秀頼/ひでより)を授かった豊臣秀吉は、生きる活力を得て、再び強気の態度を見せ始める。いったんは和睦の方向に進んでいた明国(中国)との戦いを強行する命令を下したのだった。

 

 徳川家康が制止するものの秀吉の決意は変わらず、無謀と思える戦いが続行された。

 

 そんななか、秀吉が病に倒れる。死期を悟った秀吉は家康を呼び出し、後事を託した。秀吉は、自身の忠臣・石田三成(いしだみつなり/中村七之助)が理想とする合議制に現実味はないと考えており、家康に天下を簒奪(さんだつ)されるであろうことを見越していた。それでも、あくまで秀頼と三成を支えると主張する家康を、秀吉は「白兎が狸になった」と評した。

 

 そんな家康の胸中には、老臣・酒井忠次が死の直前に遺した「天下を取りなされ」という言葉が浮かんでいた。

 

古くからの忠臣が次々に鬼籍に入る

 

 1593(文禄2)年829日、拾(のちの秀頼)誕生を受けて、名護屋(なごや/佐賀県唐津市)から大坂へ帰還した豊臣秀吉の後を追うように、徳川家康も大坂に入った(『家忠日記』『当代記』)。

 

 同年1026日、家康は江戸に帰還(『家忠日記』)。関東に入府した1590(天正18)年以降、奥州攻めや朝鮮出兵にまつわる名護屋在陣などでほとんど江戸を不在にしていたので、この時期の家康は江戸城の修築に力を注いでいる。なお、この年に、豊臣方に寝返った徳川家の老臣・石川数正(いしかわかずまさ)が死去したとされている。

 

 年が明けて1594(文禄3)年16日、秀吉から伏見城の普請要請を受け、家康は江戸城修築を再び延期。翌月4日に榊原康政(さかきばらやすまさ)の屋敷にて伏見城普請についての打ち合わせをした後、12日に出発し(『家忠日記』『武徳編年集成』)、同24日に上洛した(『言継卿記』)。

 

 同年815日には、家康の娘・督姫(とくひめ)が池田輝政(いけだてるまさ)と婚約している。二人の婚儀は同年1227日に行なわれた(『言継卿記』『池田家履歴略記』)。二人の結婚の背景には秀吉の勧めがあったらしい。督姫はかつて小田原の北条氏直(ほうじょううじなお)と結婚していた家康の二女。北条氏滅亡とともに高野山に追放されていた氏直は、河内国狭山(大阪府大阪狭山市)にて再興の道を探ることが許されていたが、1592(文禄元)年11月に痘瘡(とうそう)で死去している(『小田原記』)。

 

 同年915日、徳川家の忠臣・大久保忠世(おおくぼただよ)が死去。享年63だった。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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