家康に届かなかった北条父子の「釈明」
史記から読む徳川家康㊲
10月1日(日)放送の『どうする家康』第37回「さらば三河家臣団」では、豊臣秀吉(とよとみひでよし/ムロツヨシ)の天下統一の大詰めとして小田原征伐が描かれた。徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)は、北条氏を滅ぼせば褒美に北条氏の治めてきた関東を領地として与える、と秀吉に命じられたが、それは取りも直さず、長年治めてきた三河や駿河(するが)を取り上げられることを意味していた。
秀吉の命により三河を去る

神奈川県小田原市にある小田原城跡。1495(明応4)年に初代・北条早雲が居城として以降、5代100年間にわたって関東を治める北条氏の拠点となった。上杉謙信や武田信玄の猛攻も耐えしのいだ難攻不落の城と呼ばれ、豊臣秀吉による小田原攻めの際には総延長9kmの総構に囲まれた規模に拡張されていた。
1589(天正17)年5月、豊臣秀吉と側室・茶々(ちゃちゃ/北川景子)との間に、待望の第一子が生まれた。歓喜する秀吉は、その勢いのまま関東の北条氏を滅ぼすことを決定する。戦いの先鋒に任命されたのは、北条氏と同盟関係にあった徳川家康だった。
秀吉は、戦いの後に関東へ国替えするよう家康に命令。父祖伝来の土地から離れることに反発を覚える家康だったが、関白・秀吉の命であれば、従わざるを得ない。
4か月に及ぶ籠城戦を展開した北条氏だったが、やがて秀吉の奇策によって戦意を喪失。北条氏の実権を握っていた北条氏政(ほうじょううじまさ/駿河太郎)は、今後、関東を治めることになる家康に後事を託し、切腹の処罰を受け入れた。
度重なる秀吉の傲慢に過ぎる裁定に苛立ちを募らせる家康だったが、三河から付き従ってきた家臣らは、たとえ国替えになっても家康に忠義を尽くすことを誓い、主従の絆がより固まった。
そんななか、生まれたばかりの秀吉の子・鶴松が幼くして命を落とす。悲しみに暮れる秀吉の目に、狂気の光が宿っていった。
家康は戦前に秀忠を人質に送っていた
1589(天正17)年11月24日、豊臣秀吉は北条氏に対する弾劾状を発している(『武家事紀』「伊達家文書」)。
秀吉は北条氏と真田氏との間で領有を巡って紛糾していた沼田領の問題に介入し、2/3を北条領、1/3を真田領と分割する裁定を下していたが、北条氏はこれを不服としていた。そこで、北条氏が真田領となっていた名胡桃城(なぐるみじょう/群馬県みなかみ町)を攻め落とすという暴挙に出たため、状況が一変(『加沢記』「真田家文書」)。自身の裁定を蔑(ないがし)ろにされた秀吉が、北条氏に宣戦を布告したのだった。これに伴い、秀吉は全国の武将に出陣の準備をするよう命じている(『鹿苑日録』)。
事態を受け、同年12月3日に家康は上洛(『家忠日記』)。この時に家康は、秀吉から北条氏の居城である小田原城(神奈川県小田原市)攻撃の先鋒を命じられている(「乙骨太郎左衛門覚書」)。
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