激しい「宣伝合戦」が行なわれた「長久手の戦い」の戦後
史記から読む徳川家康㉜
8月20日(日)放送の『どうする家康』第32回「小牧長久手の激闘」では、徳川軍と羽柴軍が激突した様子が描かれた。家臣の奮闘で大勝利を収めた徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)だったが、羽柴秀吉(はしばひでよし/ムロツヨシ)が敗北を認めた様子はない。家康の胸に一抹の不安が残ったのだった。
中入りを見破った徳川軍が大勝利を収める

愛知県日進市の岩崎城跡。岩崎城兵らは、三河に向かう羽柴軍に抵抗して足止めし、長久手の戦いの徳川軍勝利に貢献した。この時、城代を務めていた丹羽氏重は戦死したが、家康は戦後、氏重の兄・氏次に加増して恩に報いたという。
小牧山と楽田城(がくでんじょう)にそれぞれ布陣して対峙した徳川家康と羽柴秀吉だったが、互いに攻め時をうかがう探り合いが続いていた。
膠着状態を打開すべく、徳川家家臣の本多正信(ほんだまさのぶ/松山ケンイチ)は秀吉に対する罵詈雑言(ばりぞうごん)を書き連ねた立て札をあちこちに掲げ、秀吉の怒りを焚き付ける作戦を提案した。
一方、秀吉方の池田恒興(いけだつねおき/徳重聡)は、家康不在で手薄となっている徳川氏の本領である岡崎に攻め入る策を進言する。家康を小牧山城から引っ張り出し、秀吉軍の本隊とともに挟み撃ちするというもので、「中入り」と呼ばれる作戦だった。
こうした秀吉の計略を見破った家康は、中入りに向かう池田隊に奇襲を仕掛け、恒興らを討ち取った。戦局を不利と見た秀吉は、陣を引くこととなった。
大軍の羽柴軍を撤退させた家康の陣営は、戦勝に沸き立った。しかし、一人、家老の石川数正(いしかわかずまさ/松重豊)のみが浮かない顔をしていた。「秀吉には勝てぬと存じます」という数正の言葉に、家康は妙な胸騒ぎを覚えていた。
失敗した「中入り」を主導したのは誰か
1584(天正12)年3月15日、徳川家康は小牧山(愛知県小牧市)を占拠し、周囲に砦を築くなどして、羽柴軍の来襲を待ち受けた(『武徳編年集成』)。
羽柴秀吉は3月21日に大坂城を出て、27日に犬山城(愛知県犬山市)に到着。この前後に秀吉は、常陸国(現在の茨城県の大部分)の佐竹義重(さたけよししげ)に書状を送り、「家康と一戦し討ち果たすつもり」と伝えている。
同月28日か29日には、秀吉は楽田(愛知県犬山市)へと陣を移動。両軍の睨み合いが始まった(『生駒家宝簡集』)。戦場を目の当たりにした秀吉は、家康の備えが堅いと見て、楽田と小牧山との間に砦を築き、防備の強化に努めた。
こうして両軍は、小競り合いはあったものの、ほとんど動きが取れずに膠着状態となった。
同年4月4日、秀吉方は軍議を開いている。その席で池田恒興が「三河中入り」を提案(『太閤記』)。家康の背後を撹乱するのが狙いだった。秀吉は了承し、さっそく三河に向かう別働隊が編成されている。
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