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豊臣政権への「反逆者」と見なされた家康

史記から読む徳川家康㊷


11月5日(日)放送の『どうする家康』第42回「天下分け目」では、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)と石田三成(いしだみつなり/中村七之助)との間で繰り広げられる熾烈な情報戦の様子が描かれた。そんななか、天下分け目の戦いの前哨戦ともいえる戦いがいよいよ始まった。


 

〝関ヶ原〟決戦を前にした情報戦

京都府京都市に残る伏見城の模擬天守。もともとは豊臣秀吉が築城したものだったが、関ヶ原の戦いの攻防戦で損害を受けた後、徳川家康が修築した。

 上杉討伐に向かった徳川家康のもとに、石田三成の挙兵とともに、諸将の動きが知らされた。西国大名の多くが三成方につくという情勢のなか、家康は会津に向かうのを中止して江戸に戻ることを決意。その上で、秀忠(ひでただ/森崎ウィン)や井伊直政(いいなおまさ/板垣李光人)、本多忠勝(ほんだただかつ/山田裕貴)らを先陣として三成方の攻略に向かわせた。

 

 一人でも多くの者を味方につけるべく、家康は大量の書状を送って調略を開始。かたや三成も、同様に多くの書状を送り、味方を募っていた。

 

 そんななか、徳川方の京の守りとして鳥居元忠(とりいもとただ/音尾琢真)に留守を任せていた伏見城が落城。徳川家にとって長年の忠臣であった元忠が討死した。

 

 家康の命に従い、秀忠は徳川軍3万を引き連れ、真田昌幸(さなだまさゆき/佐藤浩市)の攻略にかかった。ところが、手練手管の昌幸の陰謀により、真田氏の居城である上田城で足止めを食らうこととなった。

 

 美濃国赤坂に着陣した家康は、秀忠率いる3万の軍勢を欠くという状況のまま、三成の誘いの手にあえて乗り、関ヶ原を目指すことにしたのだった。

 

妻子の抵抗により方針転換を余儀なくされた三成

 

 1600(慶長5)年717日、石田三成は、徳川家康に従って会津に向かった大名らの妻子を、それぞれの大名屋敷から強制的に大坂城内に連れ去った。人質にして自軍に味方するよう促すためだった。なお、この日は家康に対する弾劾状である「内府(家康)違いの条々」が諸大名に送られた日でもある(『義演准后日記』「筑紫古文書」)。

 

 この時に大名の妻子らは、さまざまな手を使って人質収監に抵抗を示している。例えば、加藤清正(かとうきよまさ)の子を奪われまいと加藤家の家臣たちは替え玉を用意して難を逃れたとの逸話がある。

 

 細川忠興(ほそかわただおき)の妻であるおたま(ガラシャ)は、夫の命令がないことを理由に大坂城への出頭を拒否。三成の差し向けた兵に屋敷を取り囲まれると、火を放ち、家臣に胸元を突かせて絶命した(『言経卿記』『霜女覚書』)。おたまは自害の禁じられていたキリシタンだったため、このような最期を選んだといわれている。

 

 黒田如水(くろだじょすい)の妻や息子の長政(ながまさ)の妻らは、細川邸の火災騒ぎに乗じて大坂を脱出したという。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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