世間が家康を「天下殿」と見なした三成の隠居
史記から読む徳川家康㊵
10月22日(日)放送の『どうする家康』第40回「天下人家康」では、太閤の死後、新たに始まった合議による政治体制の様子が描かれた。幾度もの修羅場をくぐり抜けてきた徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)は、周囲に警戒されながらも頭角を現していった。
家康に対する三成の不信が高まる

滋賀県彦根市にある佐和山城跡。石田三成が城主となったのは1591(天正19)年のこととされている。三成が全国を奔走していた時期のことで、父の正継が城の留守居を務めていた。
太閤・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死去により、朝鮮出兵の中断が決定された。凄惨な戦場を経験し帰国した福島正則(ふくしままさのり/深水元基)や加藤清正(かとうきよまさ/淵上泰史)らは、秀吉亡き後の政治を石田三成(いしだみつなり/中村七之助)が中心になって取りまとめていることに、激しい反発を覚えた。三成は、頭は切れるが人の心を理解しておらず、悪気なく正則らに心無い言葉を投げており、反感を買っていた。
五大老に選出された大大名である徳川家康を頼りにする三成だったが、家康の専横的な振る舞いを目の当たりにすると、毛利輝元(もうりてるもと/吹越満)や上杉景勝(うえすぎかげかつ/津田寛治)、茶々(ちゃちゃ/北川景子)らの入れ知恵もあり、家康への警戒心を強めるようになる。
三成の苦しい立場を考慮して、一時的に「豊臣家から政務を預かりたい」と家康が申し出たことで、三成の警戒心は一気に高まり、敵視するに至った。三成とのこじれた関係を修復すべく、家康は前田利家(まえだとしいえ/宅麻伸)に相談する。利家は現政権における家康の理解者だったが、まもなく病没する。
すると、三成に不満を持つ武将らが決起して、三成の屋敷を襲撃。騒動の責任をとって、三成は隠居することとなった。三成に処分を言い渡した家康は、襲撃した諸将を諌(いさ)める一方、三成と完全に決裂してしまう。
豊臣政権を牛耳っていた三成が失脚したことで、家康は名実ともに政務の中心を担う存在になったのだった。
豊臣家家臣として三成の命を救った家康
1598(慶長3)年8月28日、徳川家康は毛利輝元、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、前田利家と連署して、朝鮮で戦闘を続けている黒田長政(くろだながまさ)や立花宗茂(たちばなむねしげ)に宛てて、朝鮮と和議を結ぶことと撤兵を指示する書状を送っている(「黒田家文書」)。これは豊臣秀吉の死から10日後のことだった。これを受け、軍は撤退を開始。同年11月20日に、全軍の撤退が完了している(『征韓録』)。
この頃、家康は五大老連署の書状を頻繁に出して、豊臣政権での政務を精力的にこなしているが、その一方で同年11月2日や28日に鶴を献上するなど、朝廷との接近も図っている(『御湯殿上日記』)。
翌1599(慶長4)年1月10日、秀吉の遺命に従って、豊臣秀頼(ひでより)が伏見城(京都府京都市)から大坂城に移った(『義演准后日記』『言継卿記』)。
この頃、家康は伊達政宗(だてまさむね)、福島正則、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)との縁組を進めている。諸大名が勝手に婚姻を結んではならないとする秀吉の遺命に対する明らかな違反行為だった。
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