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関ヶ原直前に見せた増田長盛の「転身」

史記から読む徳川家康㊶


10月29日(日)放送の『どうする家康』第41回「逆襲の三成」では、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)が中心となり、政治が執り行われる様子が描かれた。ほとんど天下人のごとく振る舞う家康に対し、亡き豊臣秀吉(とよとみひでよし)を蔑(ないがし)ろにする行為と見る者たちは不満を募らせていた。


 

反家康派の大名たちが大坂城に結集

福島県会津若松市の会津若松城。鶴ヶ城とも呼ばれる。伊達政宗や蒲生氏郷などを経て、1598(慶長3)年に越後から国替えとなった上杉景勝が120万石に加増される形で城主となった

 石田三成(いしだみつなり/中村七之助)が失脚し、政治は徳川家康の手に委ねられることになった。豊臣秀吉の後継者である秀頼(ひでより)が在城する大坂城の二の丸に入り、家康はますます世間から天下人と見られるようになった。しかし、それを快く思わない者も少なくない。

 

 そんななか、五大老の一人である上杉景勝(うえすぎかげかつ/津田寛治)に不穏な動きがあるとの知らせが入る。越後から会津に国替えとなった景勝は領国に戻り、領内の整備ばかりか、城を築き、再三の上洛命令を無視していた。あたかも戦に備えているかのようだと、多くの者が疑っていた。

 

 武力で事を収めるのに慎重な家康は、やむなく大軍勢をもって会津に向かい、速やかに降伏させることを目的として、出陣した。

 

 家康不在の畿内を見て、三成はこれを好機と捉えて挙兵。三成に付き従ったのは、盟友・大谷吉継(おおたによしつぐ/忍成修吾)をはじめ、五大老・毛利輝元(もうりてるもと/吹越満)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/栁俊太郎)、五奉行・増田長盛(ましたながもり/隈部洋平)、長束正家(なつかまさいえ/長友郁真)、徳善院玄以(とくぜんいんげんい/村杉蝉之介)など。彼らは秀頼のいる大坂城に集結し、揃って「打倒・家康」を誓った。

 

家康と茶々の結婚の噂が流れていた

 

 1599(慶長4)年416日、朝廷は豊臣秀吉に「豊国大明神」の神号を与えた。同19日に家康は秀吉の後継者・秀頼の名代として豊国社を参拝している(『舜旧記』)。

 

 同年728日、五大老の上杉景勝が領国経営のために会津に帰国することを報告するため、大坂城で秀頼と家康に面会。同じく前田利長(まえだとしなが)も翌月に加賀国金沢(石川県金沢市)に帰っていった。政権の要職である五大老が相次いで中央から離れたことから、家康の権限が自然と強化されたと考えられる。

 

 同14日、家康は後陽成(ごようぜい)天皇と対面(『御湯殿上日記』『言経卿記』)。天皇は歴代将軍や秀吉などと同様に家康をもてなしていたらしい。朝廷も家康を秀吉亡き後の天下人と見なしていたことがうかがえる。

 

 秀吉の命日である同18日には、家康は豊国社を参った(『舜旧記』)。豊臣政権の家臣としての公務だが、なぜかこの時期に家康と茶々(淀殿)が結婚したとの噂が流れている(『多聞院日記』)。

 

 翌月14日には会津の景勝に無事の帰国を喜ぶ書状を送るなど(「上杉家文書」)、この頃の家康は政治的には平穏な日々を過ごした。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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