家康が介入するほどに激化した宇喜多秀家の「人事」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第35回
■家康の介入によって実現した秀家の「人事」
1599年に家政の中心であった綱直が病死すると、達安たちは次郎兵衛を排除するために屋敷を襲撃するなどの強硬手段に出ます。秀家は対抗手段として首謀者である達安の暗殺を図るなど、後に宇喜多騒動と呼ばれるほど泥沼化していきます。
この騒動は大谷吉継(おおたによしつぐ)や榊原康政(さかきばらやすまさ)の調停でも治まることがなく、最終的に徳川家康の裁断によって沈静化することになります。その結果、これまで宇喜多家を支えてきた戸川達安(とがわみちやす)、宇喜多詮家(うきたあきいえ)、岡貞綱、花房正成(はなぶさまさなり)などの重臣の多くが他家預かりや出奔することになりました。この裁断により、宇喜多家は秀家の発言力が強化されたと思われます。
関ヶ原の戦いでは秀家の主導の元、西軍の副将として中心的な役割を担っていきます。関ヶ原の戦いの本戦でも西軍の主力として戦っています。ただ一方で、戦闘経験豊富な家臣たちが離れた事で宇喜多家の戦力を低下させていたとも言われています。
■時代に関係ない「人事」の難しさ
戦国大名たちは中央政権の要望に応えるためにも、当主の権力強化が必要となっていました。
同時期に、毛利家においても両川体制から側近政治への変革を進めていたように、多くの戦国大名たちもこれまでの豪族の集合体から当主を中心に統制された組織への変革を考えていました。
秀家も宇喜多家の中央集権化を目指したものの、家中で反発を生み御家騒動へと発展してしまう結果となりました。
現代でも、組織の大きな変革を目指した「人事」がきっかけとなり、内部対立や混乱を生んで逆に業績を悪化させてしまう事がよくあります。秀家も実施方法やタイミングを考慮できていれば、家中の混乱を最小限に抑えられたかもしれません。
ちなみに、花房正成など宇喜多家を離れた家臣の中には、秀家の赦免に尽力し、八丈島へ物資の援助を続けた者もいました。組織を離れてから結びつきを強める関係性の一例かもしれません。
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