「遠山の金さん」の恩人は12代将軍・徳川家慶? 大奥も巻き込んだ水野忠邦への抵抗
今月の歴史人 Part.8
NHKドラマ『大奥』では、老中水野忠邦の後にその職に就いた阿部正弘と「遠山の金さん」こと遠山景元のコンビが登場した。じつは遠山景元が水野忠邦と正面切って対立できたのは、12代将軍家慶の存在が大きい。今回は、水野忠邦に反発した遠山と大奥、そして家慶の実像に迫る。
■遠山景元はなぜ水野忠邦と真っ向勝負できたのか?

「公事上聴」では、吹上に特設の裁判所を設け、御簾内から将軍が三奉行の裁判を見分しました。これは享保6年(1721)に8代将軍吉宗が行ったのが最初で、寛政5、6年(1793、94)や文化元年(1804)などにも実施された。
揚洲周延「千代田之御表」「於吹上公事上聴ノ図」/都立中央図書館蔵
庶民の生活を一番に考えていた「遠山の金さん」こと遠山景元。時の老中、水野忠邦と対立するその姿は時代劇に描かれるイメージに沿っていると思われるかもしれない。しかし、このような考え方はそもそも、町奉行所の仕事そのものの方針であり、遠山が特別というわけではなかった。一方で、遠山以外の奉行が彼のように忠邦と真っ向勝負できなかったのも事実である。
忠邦によって、遠山の前任者である筒井政憲(つついまさのり)は左遷されてしまい、同時期の南町奉行矢部定謙は過去の失態から改易にまで至ったのである。この時矢部を追い込んだのが、忠邦の腹心である目付鳥居耀蔵であり、鳥居がその後南町奉行に収まった。
当然、鳥居は忠邦の側につき、遠山にはやりづらい状況になっていく。ちなみに鳥居は甲斐守(かいのかみ)だったため、「耀甲斐(ようかい)」と呼ばれ、江戸庶民から嫌われた。
それでは、遠山はなぜ忠邦と渡り合えたのだろうか。その背景には、12代将軍家慶の存在があった。将軍は一代に一度、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)の裁判を上覧する公事上聴(くじじょうちょう)という儀式を行っていた。家慶の時には8人の奉行が2件ずつ将軍の前で裁いたのであるが、その中で遠山だけ、家慶からお褒めの言葉を賜ったのである。家慶が認めた名奉行に、忠邦もうかつに手出しができなかったのであろう。
そしてもう一人、忠邦が悩まされた相手として、大奥の上臈年寄姉小路が挙げられよう。姉小路は、楽宮喬子(さぎのみやたかこ)が家慶の正室になる際に京都から同行した人物で、家慶政権期の大奥で最大の実力者といわれた。
忠邦が大奥に経費削減を求めたところ「男性から隔離された環境にいる大奥の女性たちから、美味しいものを食べ、美しい着物を着るという楽しみを奪うのか。御老中様もお妾が4~5人いるのでは」などと言って黙らせたというエピソードが伝わっている。
また、忠邦の後、権力を握ることになる老中の阿部正弘(あべまさひろ)も、自らは諸方からの賄賂を受け取らなかったにもかかわらず、姉小路には贈り物をしていたといい、その実力のほどがうかがえる。
姉小路は表の人事にも口を出したともいわれ、家慶が亡くなった際には髪をおろしたという。家慶と特別な関係であったのではないかとも伝えられており、深く信頼されていたことは間違いないだろう。
■大奥の女性が目にした家慶の姿
それでは、大奥の女性たちから見た家慶は、どのような将軍だったのだろうか。家慶の時代に大奥で御次を務めた佐々鎮子(さっさしずこ)によると、なかなかの大酒飲みだったようだ。お酌をする時に「甘いのが好きか、辛いのが好きか」と聞くので、甘いと申し上げると御機嫌を損ねるため辛いというと、御燗鍋(おかんなべ)で自ら注ぐのだという。
大きな汁物椀の蓋や大皿にざっと注ぐので、袂の中まで流れ込んでしまい、それを楽しんだそうだ。なおその時の酒は「御膳酒(ごぜんしゅ)」といって、真っ赤で嫌な臭いのする古い御酒だったとか(『旧事諮問録』)。
嘉永6年(1853)6月22日、家慶はこの世を去るが、同月3日にはペリーが浦賀に来航、7月18日には、ロシア使節プチャーチンが長崎に来航している。確実に、時代は変わりつつあった。
監修・文/福留真紀