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豊臣政権への「反逆者」と見なされた家康

史記から読む徳川家康㊷

 これほどの抵抗に慌てた三成は、強制的に人質を収監することを諦め、大名屋敷の周囲を柵で囲み、監視するにとどめることにしたらしい。三成の行為は家康に従っていた諸将らの怒りに火を注ぐことになり、反三成派の結束を逆に固めることになったともいわれる(『藩翰譜』)。

 

 同月20日、江戸を発した家康より一足先に宇都宮に到着した忠興は、上方にいる家臣に書状を送っている。内容は、毛利輝元(もうりてるもと)と三成が手を組み、反家康の兵を挙げたことが家康に次々と注進されている、というもの(「松井家文書」)。つまり、この時点で家康は三成挙兵だけでなく、西国大名の輝元が三成方に味方する姿勢を見せた情報を得ていたことになる。

 

 同月24日、真田昌幸の長男である信幸(のぶゆき)が徳川方についた。これを受け、家康は上田城(長野県上田市)を信幸に与えることを約束した。城主の昌幸は信幸と別れ、上田城に帰還している(「真田家文書」)。真田氏は昌幸と信繁(のぶしげ)が三成方、信幸が徳川方と、両陣営に分かれたことになる。

 

 同日に家康は小山(栃木県小山市)に着陣(『徳川実紀』『石川正西聞見集』)。翌日に諸将を呼び寄せて軍議を催し、上杉征伐の中止と西上の方針が伝えられた(「大関家文書」)。

 

 なお、増田長盛(ましたながもり)ら三奉行が結束して「内府違いの条々」を発し、反家康派を糾合しているのを家康が知ったのは、同月29日のことだったらしい(「黒田家文書」)。つまり、小山で軍議が開かれた時はまだ、正確に事態を把握していなかったと考えられる。

 

 同年81日、鳥居元忠の守る伏見城(京都府京都市)が島津義弘(しまづよしひろ)や小早川秀秋(こばやかわひであき)らの軍勢に取り囲まれ、陥落(『言経卿記』)。4万といわれる軍勢に対し、元忠らは1800ほどの兵で城を守り、約10日間も持ちこたえた。

 

 なお、元忠の伏見城籠城については「天下謀逆露顕」とする史料もあり、当時は徳川方が豊臣政権に対して反乱を起こしたとの見方もあったことが分かる(『舜旧記』)。

 

 また、落城の3日後には三成の実兄である石田正澄(まさずみ)らが伏見城の金銀財宝を探索させたとの噂が流れている。伏見城には豊臣秀吉(とよとみひでよし)の遺した膨大な財産が眠っている、と信じられていたらしい。伏見城陥落の後、京では盗賊が多数現れたとの記録もある(『小槻孝亮宿禰記』)。

 

 同4日、家康は会津への抑えとして結城秀康を残して小山を発った(「真田家文書」)。同5日には江戸に到着(『板坂卜斎覚書』「伊達家文書」)。西国の情勢を睨みながら、家康はここで多くの書状を書き送っている。

 

 三成が大垣城(岐阜県大垣市)に入城したのは、同10日のことだった(「浅野家文書」)。

 

 16日には、後陽成(ごようぜい)天皇が大坂城の豊臣秀頼(ひでより)のもとに使者を送り、徳川方と和睦するよう勧めている(『時慶記』)。

 

 同21日、先発していた徳川方の福島正則(ふくしままさのり)らの軍勢が岐阜城攻撃を開始した(「福島文書」「池田文書」)。三成方の最前線ともいうべき岐阜城が陥落したのは23日のこと(「浅野家文書」)。これを受け、家康は諸将に自らも早々に出陣することを知らせている(『譜牒余録』)。

 

 こうして91日、3万の軍勢を率いて家康が江戸を出発(『慶長見聞集』『板坂卜斎覚書』『高山公実録』)。同10日に尾張国熱田(『慶長年中卜斎記』「竹中文書」)を経て、14日正午に美濃国赤坂(岐阜県大垣市)に着陣した(『関原始末記』)。

 

 諸大名を集めて軍議を開いた家康は、翌日に出陣することを決定している(『慶長見聞集』「吉川家文書」)。

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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