【偉人クイズ】お風呂好きの明智光秀にお風呂を借りたのはだれ?
やってみよう!偉人のできごとクイズ
戦いに明けくれた戦国武将たちも、ときには茶会(ちゃかい)をしたり、お香(こう)を焚いたりして、くつろいでいました。その癒(い)しのひとつが「お風呂」でしょう。以前に紹介した武田信玄と温泉のエピソードにつづいて、今日は風呂と明智光秀(あけちみつひで)のエピソードをご紹介します!【歴史人Kids】
■お坊さんたちと北陸で温泉旅行
明智光秀といえば、織田信長を討った「本能寺の変」(1582年)で有名ですね。じつは、この人には入浴にまつわる記録がいくつも残っているのです。もしかすると「風呂好き」だったのかもしれません。

山代温泉の古総湯(撮影:上永哲矢)
最初のひとつが『明智軍記』に書かれている、光秀が信長に仕えるまえの話。光秀は朝倉義景(あさくらよしかげ)の支配地だった越前(えちぜん・福井県)にいたことがあります。そのとき、称念寺(しょうねんじ)の近くに住んでいた光秀はある日、お坊さんたちと一緒に山代温泉(石川県)へ湯治(とうじ)に出かけたそうです。
そこで温泉に入り、10日ほど療養(りょうよう)したところ、小瘡(こがさ=ひふの病気。おでき)が、なおったと喜んでいます。滞在(たいざい)中は、みんなで越前からとどいた素麺(そうめん)を食べたり、茶会(ちゃかい)をしたり、なかなか楽しそうな様子がつたわってきます。
■京都のお公家さんに「サウナ」を借りる
さて、2つめのお風呂エピソード。それは光秀が信長に仕えてから京都で暮らしていたときのことです。京都には、光秀と親しい公家(くげ)がいました。吉田兼見(かねみ)といい、吉田神社の神官もつとめていた人です。筆まめなひとで、彼は日記(兼見卿記・かねみきょうき)をつけていたのですが、そのなかに明智光秀が何度もでてきます。
そのひとつが元亀元年(1570年)11月13日です。光秀が兼見の家にきて「石風呂(いしぶろ)を所望(しょもう)したい」というので、使わせてあげたそうです。そして、その10日後の11月23日にも風呂を借りにきたと書いてあります。「早々に石を焼(や)いた」とあり、すこしでも早く風呂に入りたかったのかもしれません。親しくもない人の家で風呂を2回も借りることはないでしょうから、ふたりの仲の良さが、わかります。
なお「石風呂」「石を焼いた」と書いてありますが、当時の一般的な風呂は、せまい部屋のなかにある熱した石に水をかけ、その蒸気(じょうき)で部屋をいっぱいにしてあたたかくして、汗を出して体をこすり、それをお湯で流すというものでした。いまで言う「サウナ」ですね。当時は大量の湯や水は使えませんでしたし、水道もシャワーもありませんでした。
■島津家久を城へ招待して風呂を貸す
さて、3つめのエピソードは、光秀の居城・坂本城(さかもとじょう)でのこと。それが書かれているのは、九州の大名・島津家久(しまづいえひさ)という人の日記(家久公御上京日記)です。家久は天正3年(1575年)5月15日、近江(おうみ=滋賀県)の坂本に到着しました。光秀の城下町です。
家久は光秀やほかの客といっしょに湯殿(ゆどの=風呂が付いた建物)に招待されて食事をして、お酒を飲み、歌会(うたかい)をしたそうです。光秀が家久と一緒に風呂へ入ったかまでは、ハッキリとはわかりませんが、風呂あがりにみんなで楽しんだのでしょう。このように楽しげな入浴風景は、当時の記録にはなかなか見あたりません。
最後にもうひとつ、京都の妙心寺(みょうしんじ)に、なんと「明智風呂」(あけちぶろ)という建物があります。これは、光秀が亡くなったあと、おじの密宗和尚(みっそうおしょう)が建てたもの。お寺のひとに聞くと、亡き甥(おい=光秀)が謀反人(むほんにん)といわれるので、その汚名(おめい)を洗い流すために、これを建てたそうです。

妙心寺の明智風呂(撮影:上永哲矢)
光秀の命日になると、むかしはお寺の信者たちにこの風呂を開放する施浴(せよく)が行なわれていました。これは銭湯のようなものといえるでしょう。ふだんは川の水で体を洗うのがせいぜいだった庶民たちにとって、それはありがたいことだったのです。
もしかすると、光秀が風呂好きだったことを、おじさんも知っていたのかもしれませんね。こうした、むかしの人の暮らしを思いながら、どうして現代人が自由に「お風呂」や「シャワー」を使えるようになったのか、考えてみるのもいいでしょう。