姉に「夫」を殺される! 聖武天皇の娘たちの「壮絶すぎる人生」
日本史あやしい話18
聖武天皇の三姉妹(井上内親王/いのえないしんのう、阿倍内親王/あべないしんのう、不破内親王/ふわないしんのう)は、いずれも皇后、天皇、王妃などの地位を得ている。しかし、末娘・不破内親王は姉に陥れられて夫を殺され、息子も謀反で流罪に。長姉・井上内親王も冤罪を被せられたのち、謎の死を遂げている。唯一頂点に君臨し続けてきた次姉・阿倍内親王(孝謙/称徳天皇)も、実のところ幸薄い女性だったというべきだろう。あまりにも壮絶な、彼女たちの人生について見てみよう。
■知る人ぞ知る「松虫姫伝説」とは?

松虫寺(千葉県印西市)
松虫姫(まつむしひめ)と聞いて、「はは〜ん」と頷ける人は、相当、伝説伝承に通じた人というべきかもしれない。あまり聞きなれないこの女性、実は、聖武天皇の第三皇女・不破内親王として言い伝えられているのだ。まずはこの松虫姫伝説から見ていくことにしよう。
舞台は、現在の千葉県印西市・松虫である。らい病を罹った松虫姫こと不破内親王の身を案じた聖武天皇が、下総国印旛沼の辺り、萩原郷に祀られている霊験あらたかな薬師仏にすがるかのように、彼女を下向させたところから物語が始まる。同行するのは、僧の行基と、乳母の杉自の他、数名の従者と2頭の牛であった。
苦難の末、ようやく下総国までたどり着いた一行。ここで嵐に阻まれて足止めをくらったものの、行基の祈りが効いたものか、無事に通過し、なんとか萩原郷にまでたどり着いた。そこで村人たちに読み書きや養蚕などを教え、孤児救済などの慈善事業も手がけながら、平穏な日々を送っていた。
それから数年後、姫の夢枕に薬師仏が現れ、病が全快したことを告げたという。早速、都へ戻るよう準備がなされたが、帰郷の日にちょっとした事件が起きた。一頭の牛が姿を隠したのだ。それを探すため乳母の杉自も残ることになったのだが、なんとその牛は、老いた自分が足手まといになることを恐れ、自ら池に身を投じていたことが発覚。
それを知った杉自は、牛の心根に打たれたものか都には戻らず、この地で牛を弔いながら没したとか。悲しいが、健気な心意気が感じられる、心温まるお話である。
一方、病も癒えて無事、都に戻った松虫姫。彼女を目にした聖武天皇は大喜びで、早速、同行した行基に命じ、薬師仏を祀るための寺院を建立させた。それが、同地に今も残る松虫寺だという。
もちろんこれらは伝説であり、松虫姫が本当に不破内親王だったとの確証もない。仮に史実にもとづくものだったとしても、相当脚色されていることだけは間違いないだろう。
そして、史実としての不破内親王の後半生は、この幸多き松虫姫伝説とは対極の人生であった。伝説では、「薬師仏の加護を得て幸運な人生を歩んだ」かのように描かれているが、実際は大違い。運に見放された、儚い人生であった。ともあれ、まずは彼女の家族関係から見ていくことにしたい。
■皇后、天皇、王妃となった聖武天皇の三姉妹
不破内親王の父は、前述したように聖武天皇である。二人の皇子がいたが、ひとりは生後1歳余で、もうひとりも17歳で死去。跡を継ぐべき男子二人を失った天皇の悲しみは計り知れない。
二人の皇子は早世したが、三人の皇女は、壮年になるまで生き延びている。井上内親王、阿倍内親王、不破内親王の三人であった。
長女の井上内親王は県犬養広刀自の娘で、幼少期に斎王を務めた後、光仁天皇(白壁王)の皇后となった女性である。45歳の時に他戸(おさべ)親王を産んでいる(疑問視されることもある)。
次女・阿倍内親王は、光明皇后との間に生まれた皇女で、後に孝謙天皇として即位。母・光明皇后が藤原氏出身とあって、後ろ盾として申し分のない家系に育ったこともあってか、聖武天皇が最も期待を寄せた子女の一人であった。
そのため、生前の安積(あさか)親王を差し置いて、阿倍内親王が史上初の女性皇太子に擁立されている。彼女の意気が揚がるのも無理はない。天皇が譲位して即位。さらに重祚して称徳天皇となったのはご存知の通りである。上皇時代に病を患ったとき、傍で看病していたのが道鏡で、病が癒えるや、その道鏡を寵愛し続けたことも、よく知られるところだろう。
そして末娘が、前述の松虫姫こと不破内親王であった。母は、次姉と同じ県犬養広刀自で、自身は後に塩焼王(しおやきおう)に嫁いで、その妃となっている。三姉妹がそれぞれ皇后、天皇、王妃となったわけだから、この頃までの三姉妹は、幸せの絶頂期と言っていいのかもしれない。
ただし、それぞれの心の中に渦巻くものがどうだったかは別である。実のところ、三者三様の悩みを抱え、姉妹でありながらも(姉妹だからと言うべきか)疑心暗鬼となって足を引っ張り合い、泥沼の抗争を見えないところで繰り広げていたのである。
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