姉に「夫」を殺される! 聖武天皇の娘たちの「壮絶すぎる人生」
日本史あやしい話18
■二人の姉に陥れられた三女・不破内親王の悲運
まず、最初のターゲットになったのが、塩焼王と結婚した妹の不破内親王であった。事件が起きたのは764年のこと。次女の孝謙上皇と対立した藤原仲麻呂(恵美押勝)が政権奪取を目論んで起こした反乱が皮切りであった。これは、孝謙上皇が道鏡を寵愛するあまり、彼を要職に就けようとしたことを危惧して目論んだ反乱である。
しかし、反乱は密告されて失敗。塩焼王は押勝に擁立されて「今帝」を称したものの、不破内親王の姉・孝謙上皇が派遣した軍に捕らえられて殺されている。言い換えれば、不破内親王は、夫を異母姉によって殺されたのである。
ちなみに塩焼王は聖武天皇の御代にも流罪に処せられており、これは聖武天皇が推し進める大仏建立に異を唱えたことで逆鱗に触れたためとも見られる。今回は、その娘・孝謙上皇の気を損ねたということになる。
三女・不破内親王に2度目の悲運が訪れたのが、769年のこと。今度は不破内親王自身が、「姉・称徳天皇を呪詛した」という疑いで訴えられたのだ。
不破内親王はここでも、内親王の身位を廃されている。その際、姉はよほど腹に据えかねたのか、厨真人厨女(台所の下女のことか)と妹の名を貶めた上で、平城京から追い出している。
この件については、称徳天皇ばかりか、「長姉の井上内親王も手を染めていた」と指摘する向きもある。井上内親王には息子を即位させたいとの強い思いがあり、その皇位継承に邪魔となる妹・不破内親王を排除しようと動いたというのだ。
ほかにも、県犬養姉女や忍坂女王、石田女王らも共謀したとされるが、いずれも称徳天皇が崩御した翌年の771年に、丹比乙女(たじひのおとめ)の讒言(ざんげん)だったことが判明して内親王に返り咲いている。
ただし、その安寧もつかの間のことであった。782年には、息子の氷上川継(ひがみのかわつぐ)が謀反を起こそうとしたとして、これに連座して淡路国へ流されたのである。その後、和泉国へ移されたところまでは記録に残っているが、以後の消息は不明。
天皇の妹であったにもかかわらず、晩年の消息が不明というのはいかがなものだろうか。何やら「きな臭さ」を感じ取ってしまうのは、気のせいだろうか?
■「夫を呪った疑い」で皇后の座から下され、幽閉
次姉とともに妹を陥れたともみなされる長姉・井上内親王。彼女自身も、その後は不運な道のりを歩むことになる。事件が起きたのは、称徳天皇亡き後の772年のことであった。
なんと、「夫である光仁天皇を呪詛した」として、皇后の座から引きずり下ろされたのだ。そればかりか、息子・他戸親王まで太子を廃されてしまったからたまらない。
さらに翌年には、「光仁天皇の姉・難波内親王も呪詛して殺害した」と訴えられ、ついに母子ともども幽閉。挙句、幽閉先で母子同時に亡くなってしまった。殺害、あるいは自殺を強要されたとしか考え難い状況であった。一説によれば、藤原百川ら式家の陰謀と見られることもあるが、真相は定かではない。
残る称徳天皇一人が安泰の道を歩んだかに見えるが、実のところ、彼女も心の平安を得ることはできなかったようである。道鏡を押し立てて仏教王国を築き上げようとしたのも、自らが不安に苛まれていたがゆえだろう。しかし、結果として、それを実現させることはできなかった。彼女亡き後、道鏡は左遷されている。
仏教にのめり込み、道鏡だけが頼りだった称徳天皇が本当に幸せだったのかどうか? それは彼女だけにしかわからない問題だが、傍目には「否」と見える。
こうして見ていくと、井上内親王、阿倍内親王、不破内親王の三姉妹はいずれも、不運な女性たちであった。陰謀渦巻く、極めて苛烈な社会を泳ぎ渡らなければならなかったからである。不運な晩年を過ごした妹の不破内親王が冒頭の松虫姫に仮託されたのも、もしかしたら、「せめてその前半生だけでも幸多かれ」と、多くの人々が願ったためなのかもしれない。
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