「妻の妹」と“不倫”した天皇たち なまなましい密会の記録は『日本書紀』にも
日本史あやしい話17
19代・允恭(いんぎょう)天皇は、「狩猟」と称して外出しながら「妻の妹」と密会を重ねていたが、皇后から「狩猟の回数を減らすように」とたしなめられた……という記録が『日本書紀』に残っている。允恭天皇の父・仁徳天皇も、皇后の妹に惑わされ、皇后の嫉妬を買った。さらに、允恭天皇の第一子は「実の妹」とも恋に落ちている。現代風にいえば“不倫”となるが、天皇と「妹」たちとの禁断の恋の顛末は、どういったものだったのだろうか?
■皇后の「妹」に手を出した天皇たち
-e1693215943469.jpg)
密会の現場となった茅渟宮の跡(筆者撮影)
『日本書紀』には、「妻の妹と通じてしまった」という天皇の醜聞が記されている。その当事者が、19代・允恭(いんぎょう)天皇であった。
允恭天皇はあるとき、皇后である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の妹・弟姫(おとひめ)を、皇后の目を盗んで、こっそり宮中へと招き入れた。弟姫の美貌は他に並ぶものがないほどで、「麗しい身体の輝きが衣を通して外に現れた」ということから、「衣通郎姫( そとおりのいらつめ)」と呼ばれている。
ちなみに、允恭天皇の父である仁徳天皇も、皇后の妹である八田皇女(やたのひめみこ)を宮中に召し入れたことで皇后の嫉妬に苦しめられることになるが、その息子である允恭天皇も父同様、皇后の嫉妬に翻弄された。その様相が、正史であるはずの『日本書紀』に記録されているというのが奇妙でもあり、また面白いところでもあった。
皇后は、允恭天皇から妹を側室として所望された際、当初は拒否している。類稀なる美貌の持ち主である妹を目にすれば、天皇の寵愛が移ることは火を見るよりも明らかだったからであろう。
しかし、そこは「女狂いの執念」のなせる技か、宮殿から遠く離れた河内の茅渟宮(ちぬのみや)に宮室を建てて、そこに弟姫を住まわせることに成功。隠れるかのように通い続けたというのだ。
■『日本書紀』に残された密会の記録
9年2月、8月、10月、翌10年1月と、愛人のいる茅渟へ向かった“密会”の記録が、かの『日本書紀』にきちんと記されているというのが可笑しい。しかも愛人と忍び逢う際には、「狩猟に行く」と称して、こっそり出かけたというから、妻を恐れておどおどとする様相が、目に見えるようである。
しかし、これはやがて皇后の知るところとなり、「狩猟の回数を減らすように!」と強くたしなめられている。以降、茅渟へのお出ましも稀になったというから、奥さんの嫉妬深さを相当恐れていたようである。
その舞台となった茅渟宮跡は、大阪府泉佐野市上之郷にある。小さな公園内に、茅渟宮があったことを示す石碑と共に、衣通郎姫こと弟姫の墓まである。側に置かれた歌碑につづられた弟姫の歌も興味深い。
「とこしへに 君もあへやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時々を」(浜藻が波に揺られて岸辺へと近付いてくるように、稀にしかお会いできないでおります)と、訪れることが少なくなってきた寂しさが歌に託されているのである。
さて、允恭天皇と弟姫は「義理の兄弟が通じてしまった」という醜聞であるが、もう一つ、「実の兄妹が通じてしまった」という禁断の恋の事例もある。その当事者が、允恭天皇の第一子・木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と、その同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の両名であった。
- 1
- 2