国葬から80年!山本五十六は幼少期から青年期をどのように過ごしたのか⁉
今月の歴史人 Part.4
連合艦隊司令官として、真珠湾奇襲攻撃を指揮し、太平洋戦争の火ぶたを切った軍人として知られる山本五十六。彼の幼少期や青年期の人生を改めて紹介する。
■明治維新で辛酸を舐めた旧長岡藩士の家に生まれる

山本五十六(国立国会図書館蔵)
昭和18年(1943)4月18日、連合艦隊司令長官の山本五十六(やまもといそろく)大将が、ソロモン諸島における最前線の視察途中、非業の死を遂げた。
戦死後、旗艦・戦艦「武藏」の居室の机を整理中、山本の直筆による「履歴一班」が発見された。前年11月から執筆していたもので、出生から筆を起こし、海軍兵学校入学までのところで中断している。
五十六は明治17年(1884)4月4日、現在の新潟県長岡市坂之上町に、旧長岡藩士・高野貞吉(たかのさだよし)、峯子(みねこ)の末子として生まれた。
貞吉は長谷川家から高野家の養子となり、貞通(さだみち/秀右衛門)の娘・美保と結婚するが、病死したため妹・美佐と結婚。美佐も病死したことから四女・峯子を後妻にした。五十六は峯子の2人目の男子だが、美佐が産んだ男子4人がいるため高野家では六男になる(ほかに女子も)。
貞吉は自分の年齢にちなみ、五十六と命名した。「履歴一班」にもその逸話が記されている。
旧長岡藩は戊辰(ぼしん)戦争で辛酸を嘗ている。五十六の祖父貞通は77歳の老骨に鞭打って長岡城で戦い、討死。玉蔵院町にあった高野家の侍屋敷も焼け落ちてしまった。
軍事総裁・河井継之助(かわいつぎのすけ)が戦死すると、貞吉は上席家老の山本帯刀(たてわき)に従って会津方面で戦った。新政府軍に捕まった帯刀は降伏を拒んで斬首されるが、貞吉は戦傷を負いながらも長岡に帰還した。
明治維新後、貞吉は小学校の校長をしながら家族を養ったが、暮らしぶりは楽ではなかった。
■叔父に感化され、海軍兵学校を志願
明治23年4月、五十六は阪之上小学校に入学した。このころアメリカ人宣教師ニューエルが、長岡中学校で英語を教えていた。ニューエルは子供たちを家に招いてコーヒーやパンなどをふるまった。五十六も入学した年から訪れている。幼くしてアメリカの文化に触れた五十六は一種のカルチャーショックを受けたにちがいない。
明治29年4月、五十六は古志(こし)郡立長岡尋常中学校に入学した。五十六は旧藩士らが設立した育英団体の長岡社から、貸費生として月謝に相当する月1円の給費を、卒業するまでの5年間受けている。五十六は任官後に全額を返済したのちも報恩を忘れず、人材育成のため長岡社に出資している。
在学中、五十六は旧長岡藩士では初の海軍将官となった叔父・野村貞(ただし/妻は貞吉の妹)に感化され、難関の海軍兵学校を志願する。

海兵学校
野村は、戊辰戦争で砲兵隊を率いて新政府軍と戦った。維新後、海軍に入って頭角を現し、日清戦争では「高千穂」艦長として武勲(ぶくん)を挙げる。その後、司令官職を歴任。少将で在職中の明治32年4月5日、54歳で亡くなった。
五十六は猛勉強するだけでなく、心身を鍛えるために鉄棒や木馬などの器械体操に没頭した。このころから逆立ちなどはお手の物となる。
明治34年4月、五十六は新潟県立長岡中学校(前年に校名改称)を卒業。7月、新潟において海軍兵学校の入学試験を受けた。
正式な入校許可の通知は10月だが、9月の時点で役場を通して「優等にて採用」になったことを知らされた。
12月16日、五十六は第32期192人の一人として入学。入学成績は2番。1番は塩沢幸一(しおざわこういち/のち大将)、3番は堀悌吉(ほりていきち/のち中将)だった。在学中、五十六は堀と親交を深め、刎頸の友となる。
五十六の「履歴一班」は入学時のエピソードで終わっているが、その中に「身体検査記憶」が記されている。入校時点の体重は「十二貫八百(匁)」(48kg)、身長は「五尺二寸五
分」(1・59㍍)。
教官から「お前の信念は?」と問われた五十六は「やせ我慢」と答えている。強靭な精神力があるとの自負が込められていたのであろう。
監修・文/松田十刻