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繫栄を遂げる前の「江戸」は何人もの武将たちによって争われた地であった⁉

今月の歴史人 Part.3


江戸は戦国時代以前、ただの入江だったという。ここを発展してきたのは室町末期からであり以降、戦乱に巻き込まれながら、江戸という町の基礎が出来上がってきた。


 

■太田道灌の江戸築城から徳川家康の町作り

 

太田道灌
江戸にはじめて城をもった武将。優秀すぎるがゆえ主君に警戒され、暗殺されてしまった。

 

 武蔵平一揆後、武蔵国は完全に関東管領・上杉氏の支配下におかれることとなる。上杉氏は、いくつかの家に分かれていたが、関東管領を世襲する山内上杉氏が関東の北部を押さえ、江戸のある関東南部は一族の扇谷上杉氏が押さえることとなった。

 

 その後、上杉一族は下総国の古河(こが)を本拠とするようになった鎌倉公方・足利成氏(あしかがしげうじ)と対立することとなり、扇谷上杉氏の重臣であった太田道灌(おおたどうかん)が、長禄元年(1457)、江戸城の築城を命じられている。

 

 太田道灌によって築城された江戸城が、どのようなものであったのかはよくわかっていない。当時の記録によれば、現在の本丸に相当する地域に、子城・中城・外城という三つの曲輪が存在し、中城には静勝軒(じょうしょうけん)という道灌の居館のほか、詰所・物見櫓などがあったと伝えられている。

 

 江戸城を拠点とした太田道灌は、足利成氏を追い詰め、扇谷上杉氏の勢力を拡大させた。しかし、こうした活躍は、皮肉なことに、主家から警戒されることになってしまう。結局、文明18年(1486)、道灌は主家の館で暗殺されたのだった。最期の言葉は、「当方、滅亡」と伝わる。

 

 太田道灌の死後、扇谷上杉氏は山内上杉氏によって追い詰められていく。そうしたなか、関東に進出してきたのが、相模(さがみ)国の北条(ほうじょう)氏である。扇谷上杉氏と山内上杉氏は、この段階になって共闘することを決めたものの、もはや手遅れだった。扇谷上杉氏は、太田道灌の予言の通りに滅亡してしまう。一方、山内上杉氏の最後の当主となった上杉憲政(うえすぎのりまさ)は、上杉氏の名跡と関東管領の職を越後(えちご)国の上杉謙信(うえすぎけんしん)に譲り、関東への復帰を図ろうとしたが、果たせなかった。

 

 こうして関東を制覇した北条氏であったが、やがて関白となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)と対立し、天正18年(1590)、小田原攻めを受けることになる。その結果、北条氏は滅亡し、代わって徳川家康(とくがわいえやす)が北条氏の遺領に入り、江戸城を居城とした。

 

 かつて江戸は寂れた漁村と考えられてきたが、発掘調査により、水上交通の要衝として繁栄していたことが明らかとなっている。江戸城を居城にすることを勧めたのは秀吉であったとみられているが、家康も、江戸の発展性に注目していたのではあるまいか。関ヶ原の戦いに勝利したあとも、江戸城を居城とし続けたのだった。

 

監修・文/小和田泰経

歴史人2023年8月号「江戸の暮らし大全」より

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